黒川樋門(くろかわひもん)|何があった場所か
黒川樋門は、名古屋市北区辻町字古新田に残る石造の樋門である。名古屋市は、庄内川から黒川(堀川)へ用水を引くために設けた樋門であり、水は矢田川の地下を通って、ここから黒川へ流れ込むと記す。市の説明によれば、三連の樋門に二つの石段が備わり、巻上機の上屋は木造で復元されたものである。構造の欄は石造とだけ記し、煉瓦を用いたという記載は市の資料に見あたらない。
黒川そのものの成り立ちは、北区が配る史跡散策路の解説に書かれている。北区は、御用水が庄内川の水を名古屋城内へ引き入れるために開かれ、これに並行する黒川は黒川治愿(くろかわはるよし)により明治9年(1876)に竣工し、翌年完工したと記す。川の名は、開削を指揮したこの人物に由来する。
分水の仕組みは、いまは失われた貯水池を抜きにしては見えてこない。北区の山田の庄散策コースの解説は、矢田川の川底を伏越して三階橋付近に大きな貯水池をつくり、ここから庄内用水・黒川・御用水へ分流したと記す。この貯水池は「天然プール」の愛称で親しまれたが、昭和53年の三階橋ポンプ所の建設で埋め立てられたという。黒川樋門は、その貯水池から南へ黒川を分けていた口にあたる。
指定の履歴も一本道ではない。名古屋市は黒川樋門を平成4年10月5日に都市景観重要建築物等の第3回指定物件とし、のちに令和2年2月26日、景観法にもとづく景観重要建造物へ移行させた。同じ令和2年2月26日の指定には、庄内川側の取水口である庄内用水元杁樋門も並ぶ。ただし景観重要建造物は文化財の指定とは別の制度である。名古屋市が公開する国指定・国登録・県指定・県登録・市指定・市登録の六つの一覧に、黒川樋門の名は載らない。
現地では樋門の上を人が通れるようになっており、黒川の水面を間近に見ることができる。国土交通省の資料は、下流で名古屋友禅の友禅流しを再現する催しが行われることも挙げる。

近くの痕跡
- 矢田川伏越(川の下をくぐって水を渡した仕掛け)(水の痕跡・約192m)
- 庄内用水元杁樋門(庄内川からの取水口)(水の痕跡・約865m)
- 瀬古元杁集水井(干ばつのあとに掘られた巨大な井戸)(水の痕跡・約879m)
- 御用水跡街園(名古屋城の堀へ水を引いた用水の跡)(水の痕跡・約883m)
時のながれ
- 明治9年(1876) — 北区の解説によれば、黒川治愿の手で黒川が竣工し、翌年に完工した。川の名は開削を指揮したこの人物に由来する。
- 明治10年(1877) — 三階橋の貯水場から南へ、黒川樋門を通じて黒川へ水が分けられるようになったと民間の調査記録は記す。
- 明治後期 — 国土交通省の整理票は築造時期を明治後期と記し、明治初期の黒川開削時にできた原型が明治末期の改築で現在の姿になったと説明する。
- 昭和53年(1978) — 北区の解説は、三階橋ポンプ所の建設によって「天然プール」と呼ばれた貯水池が埋め立てられたと記す。民間の調査記録は、この前後に樋門の上屋が取り壊されたと記す。
- 昭和55年(1980) — 名古屋市は年代の欄に昭和55年の復元と記す。巻上機の上屋は木造で復元された。
- 平成4年(1992)10月5日 — 名古屋市の都市景観重要建築物等の第3回指定物件となった。
- 令和2年(2020)2月26日 — 景観法にもとづく景観重要建造物へ移行した。同じ日の指定には庄内用水元杁樋門も並ぶ。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 名古屋市は黒川樋門の所在地を北区辻町字古新田と記し、構造の欄に石造と記す(名古屋市ページID1013986およびID1037075)。
- 名古屋市の説明では、三連の樋門に二つの石段があり、巻上機の上屋は木造で復元されたものである。樋門の上を人が通れるとも明記される。
- 名古屋市は令和2年2月26日に景観重要建造物へ移行したと明記する。同日付の指定一覧には、黒川樋門と庄内用水元杁樋門がともに並ぶ。
- それ以前は都市景観重要建築物等の第3回指定物件(平成4年10月5日)であった。名古屋市のページの階層表示で確認した。
- 文化財の指定と登録は無い。名古屋市が公開する国指定・国登録・県指定・県登録・市指定・市登録の六つの一覧を照合し、いずれにも黒川樋門と樋門の語が無いことを確かめた。六つの一覧には名古屋城や建中寺など他の建造物が並ぶので、空振りではなく不在である。
- 国土交通省の近代土木遺産の整理票は、黒川樋門の構造を石造、築造時期を明治後期と記し、選奨土木遺産と文化財の欄をいずれも横棒(該当なし)で埋める。所在地も名古屋市北区辻町字古新田と記す。
- 北区の三郷散策コースの解説は、黒川が黒川治愿により明治9年(1876)に竣工し、翌年完工したと記す。
- 北区の山田の庄散策コースの解説は、矢田川の川底を伏越して三階橋付近に大きな貯水池をつくり、そこから庄内用水・黒川・御用水へ分流したと記す。貯水池は「天然プール」の愛称で親しまれ、三階橋ポンプ所の建設で埋め立てられたとも記す。
- 国土交通省の整理票は、下流で名古屋友禅の友禅流しを再現する催しが行われることを挙げる。
そのため、このページではこうしています
- 発注のさいに添えられていた、土木学会の選奨土木遺産に2015年度選定という情報は否定された。平成27年度の選奨土木遺産は守山区瀬古の庄内用水元杁樋門であり、土木学会の当該ページに黒川の語は現れない。国土交通省の整理票も選奨土木遺産の欄を該当なしで埋める。よって黒川樋門を選奨土木遺産と呼ぶ記述は置かなかった。
- 煉瓦造という前提も採らなかった。公的な二つの資料がそろって石造とのみ記すためである。
- 所在地は自ら裏取りした。名古屋市の二つのページと国土交通省の整理票がいずれも北区辻町字古新田と記すので、区は名古屋市北区とした。守山区にある庄内用水元杁樋門とは別の区である。
- ピンは黒川の起点に置いた。名古屋市の所在地表記に番地が無いため、地図上で照合できる手がかりを重ねた。地理院地図の住所検索が返す辻町六丁目の代表点と、公開地図データに記録された黒川(堀川)の最北端、および埋め立てられた貯水池の跡に建つ三階橋ポンプ所は、いずれも約百メートルの範囲に収まる。樋門は水路の上に建つ構造物なので、水路の起点側を採った。ただし構造物そのものの座標を示す資料は見つからなかったため、位置の精度は町域として扱った。
- 名古屋市が樋門の上を人が通れると明記するため、立入の可否について注意を促す記述は置かなかった。
- 景観重要建造物と文化財は別の制度なので、六つの一覧で不在を確かめたうえで、文化財ではないと書き分けた。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 樋門そのものの設計者と施工者。黒川治愿は黒川の開削を指揮した人物であって、樋門の設計者と同一かどうかは確かめられなかった。
- 樋門の寸法。三連という門数は確認できたが、幅と高さと長さの数値の記載は見つからなかった。明治44年の改築記録に残る内法高中央八尺五寸・長五百六十五尺二寸という数値は矢田川伏越のものであり、黒川樋門の寸法ではない。
- 竣工年の特定。名古屋市は年代を明治とだけ記し、国土交通省の整理票は明治の年が不明と記す。
- 現在も水量を調節する役目を担うかどうか。
- 煉瓦の使用。名古屋市と国土交通省の資料はそろって石造とのみ記す。
- 北区の史跡散策路は六コースあり、その解説をすべて確認したが、黒川樋門を名指しする記載は無かった。最も近い記載は山田の庄散策コース(約4.8キロメートル)の三階橋ポンプ所・矢田川伏越樋であり、同コースは地下鉄上飯田駅で終わる。
- 復元の範囲。名古屋市は巻上機の上屋が木造で復元されたと記すのに対し、国土交通省の整理票は、樋門が取り壊されたのち昭和55年に現在の姿へ復元されたと読める書き方をする。石造の躯体が明治のものかどうかは断定できないため、どちらかを採らず両方の記述を並べた。
- 貯水池が埋め立てられた年。北区の解説は昭和53年と記し、庄内用水を調べた民間の記録は昭和52年と記す。併記した。
- 黒川の完成年。北区は明治9年に竣工し翌年完工と記し、庄内用水を調べた民間の記録は明治10年の開削と記す。
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
参考・出典
11件出典に基づいて掲載している
- 黒川樋門(都市景観重要建築物等 第3回指定物件)
名古屋市 - 黒川樋門(景観重要建造物 令和2年2月26日指定)
名古屋市 - 庄内用水元杁樋門(景観重要建造物 令和2年2月26日指定)
名古屋市 - 景観重要建造物指定物件
名古屋市 - 景観重要建造物等(制度概要)
名古屋市 - 指定文化財等(国指定・国登録・県指定・県登録・市指定・市登録の一覧)
名古屋市 - 黒川樋門(近代土木遺産 整理票)
国土交通省 - 史跡散策路 1 三郷散策コース
名古屋市北区 - 史跡散策路 3 山田の庄散策コース
名古屋市北区 - 平成27年度選奨土木遺産 庄内用水元杁樋門
土木学会 - 庄内用水(矢田川伏越・三階橋貯水場・黒川樋門の変遷)
暗渠 名古屋(民間の調査記録)
この場所について
この場所について、いま知っていることを教えてください。