御用水跡街園(名古屋城の堀へ水を引いた用水の跡)|何があった場所か
名古屋市北区を流れる黒川の岸に、細長い緑地が1.6キロメートルにわたって続く。名古屋市北区役所の史跡散策路の案内は、この御用水跡街園について、尾張藩時代に用水路としてきり開かれたが埋めたてられ、昭和49年、夫婦橋から猿投橋までの約1.6キロメートルが黒川岸の桜とともに緑の散歩道として生れ変ったと記す。 もとの水路が向かっていた先は、名古屋城だった。名古屋市緑政土木局は、寛文3年(1663)に名古屋城のお堀に水をひくため御用水が開削され、守山区竜泉寺下で庄内川から取水した水が矢田川の下を暗渠でくぐって名古屋城のお堀に入るようになったと記す。同局は、この結果、水源のなかった堀川に、お堀を経由して庄内川の水が流入するようになったとも説明する。城の堀は、川へ水を送る途中の水路でもあった。 水の道はその後も付け替えられていく。同局は、明和4年(1767)7月の大雨により矢田川の堤防が切れ、幅下付近まで浸水する大きな被害が起きたため、天明4年(1784)冬に大幸川の流路を変えて堀川へつなぐ工事が行われ、堀川が大きく北東へ延長されたと記す。さらに明治6年から明治10年には、犬山と名古屋をむすぶ舟運と農業用水の取水を目的に、大幸川を改修して流路を付け替え、守山区水分橋で庄内川から分岐し矢田川の下を伏越して堀川にそそぐ川がつくられた。同局は、この川が担当した技師である黒川治愿の名前から黒川と呼ばれていると記す。 現在の姿について、同局は次のように記す。御用水は廃止され御用水跡街園へ、大幸川と江川は暗渠されたことによって、川として堀川だけが残っている、と。つまり緑地の隣をいま流れているのは、江戸の御用水ではなく明治につくられた黒川である。桜の下の散歩道は、城へ水を送るという役目を終えた水路が、形を変えて残ったものだといえる。

時のながれ
- 寛文3年(1663) — 名古屋城のお堀に水をひくため御用水が開削され、守山区竜泉寺下で庄内川から取水した水が矢田川の下を暗渠でくぐって城の堀に入るようになったと名古屋市は記す
- 明和4年(1767)7月 — 大雨により矢田川の堤防が切れ、幅下付近まで浸水する大きな被害が起きたと同市は記す
- 天明4年(1784)冬 — 大幸川の流路を変えて堀川へつなぐ工事が行われ、堀川が大きく北東へ延長されたと同市は記す
- 明治6年から明治10年 — 犬山と名古屋をむすぶ舟運と農業用水の取水を目的に川がつくられ、担当した技師の黒川治愿の名前から黒川と呼ばれるようになったと同市は記す
- 昭和49年 — 埋めたてられた御用水の跡が、夫婦橋から猿投橋までの約1.6キロメートルにわたる緑の散歩道になったと名古屋市北区役所は記す
- 現在 — 御用水は廃止され、大幸川と江川は暗渠となり、川として堀川だけが残っていると名古屋市は記す
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 名古屋市緑政土木局の解説(堀川の変遷、ページID1014839、更新日2025年10月17日)は、寛文3年(1663)に名古屋城のお堀に水をひくため御用水が開削され、守山区竜泉寺下で庄内川から取水した水が矢田川の下を暗渠でくぐって名古屋城のお堀に入るようになったと記す。
- 同局は、この結果、水源のなかった堀川に、お堀を経由して庄内川の水が流入するようになったと記す。
- 同局は、明和4年(1767)7月の大雨により矢田川の堤防が切れ幅下付近まで浸水する大きな被害が起きたため、天明4年(1784)冬に大幸川の流路を変えて堀川へつなぐ工事が行われ、堀川が大きく北東へ延長されたと記す。
- 同局は、明治6年から明治10年に、犬山と名古屋をむすぶ舟運と農業用水の取水を目的として大幸川を改修し流路を付け替え、守山区水分橋で庄内川から分岐して矢田川の下を伏越し堀川にそそぐ川がつくられたとし、この川が担当した技師の黒川治愿の名前から黒川と呼ばれていると記す。
- 同局は現在の姿について、御用水は廃止され御用水跡街園へ、大幸川と江川は暗渠されたことによって、川として堀川だけが残っていると記す。
- 名古屋市北区役所の史跡散策路の案内(御用水跡散策コース、全長約4.5キロメートル)は、御用水跡街園について、尾張藩時代に用水路としてきり開かれたが埋めたてられ、昭和49年、夫婦橋から猿投橋までの約1.6キロメートルが黒川岸の桜とともに緑の散歩道として生れ変ったと記す。
そのため、このページではこうしています
- 座標は、緑地の北端にあたる夫婦橋と南端にあたる猿投橋のほぼ中間を代表点とした。1.6キロメートルにわたる細長い緑地のため、ピンの正確さは町域までの申告としている。
- 黒川の開削時期は、元号と西暦が食い違う資料の記述をそのまま西暦に置き換えず、元号のみを示した。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 埋め立て工事がいつ始まりいつ終わったのかを年月まで示す公的資料は確認できなかった。緑の散歩道になった年を昭和49年とするのは名古屋市北区役所の記述による。
- 園路の敷石が廃止された名古屋市電の敷石を転用したものであるという説明が広く流通するが、名古屋市の公開資料では裏づけを確認できなかった。
- 名古屋市の都市公園一覧(令和8年4月1日現在)の北区の一覧に、御用水跡街園の名は見あたらない。この緑地がどの制度のもとで管理されているのかは確認できていない。
- 名古屋市緑政土木局は黒川の開削時期を明治6年から明治10年(1876から1877)と記すが、明治6年は1873年、明治10年は1877年にあたり、元号と西暦が一致しない。
参考・出典
- 堀川の変遷
名古屋市緑政土木局 - 御用水跡散策コース
名古屋市北区役所 - 御用水跡散策コース案内(PDF)
名古屋市北区役所 - 北区:史跡散策路
名古屋市北区役所
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
近くの痕跡
- 那古野城跡(名古屋城より前に、ここにあった城)(戦の痕跡・約2.8km)
- 四間道(しけみち・元禄の大火のあと四間に広げたと伝わる道)(地の痕跡・約4.1km)
- 堀川(名古屋城築城とともに開削された運河)(水の痕跡・約4.7km)
- 精進川の付け替えと新堀川(堀留・記念橋付近)(水の痕跡・約4.8km)