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水 水の痕跡 資料確認済み

庄内用水元杁樋門(庄内川からの取水口)|何があった場所か

位置精度: 地点特定 / 最終確認日: 2026-09-08

庄内用水元杁樋門は、庄内川の水を庄内用水と堀川へ引き込むために、川の堤防へ設けられた取水口である。名古屋市は所在地を守山区瀬古二丁目228番地先と示し、年代を明治9、10年(1876、1877)の開削と明治43年の改修、構造を石造と掲げる。位置は庄内川に架かる水分橋の南側にあたる。名古屋市緑政土木局の河川案内は、堀川が庄内川水分橋上流の庄内用水頭取工で庄内川から分かれ、矢田川を暗渠でくぐったのち市の中心部を貫流すると説明する。取り込まれた水は矢田川を伏越で越えた先で黒川、御用水、庄内用水などへ分かれると守山区役所の案内は述べる。 守山区役所のまちあるき案内によれば、明治の初めに犬山と名古屋を結ぶ物流と農業用水のための水路が必要となり、明治10年(1877)に水分橋から矢田川の伏越までの区間が完成した。ただし腐朽が目立ったため、明治43年(1910)にアーチ型の水門へ改築された。同案内は改築後の寸法を長さ30メートル、幅2メートル、高さ3メートルと示し、人造石(たたき)工法の護岸と通船鎖跡が残ると挙げる。守山区の史跡散策路の解説は、同じ寸法のものが2門並列で原形をとどめると加える。明治19年(1886)には犬山から納屋橋まで舟が通ったという記述も同じ案内にある。 人造石は、セメントが高価で手に入りにくかった時代に、現在の碧南市出身の服部長七が考案した工法だと愛知県総合教育センターの教材は説明する。名古屋市は、人造石を使用した樋門としては名古屋で唯一現存するものであり、産業技術史からみて貴重な遺構だと位置づける。制度上の扱いは、文化財とは別の枠にある。この樋門は名古屋市の都市景観重要建築物等の第4回指定物件として平成5年(1993)10月12日に指定され、令和2年(2020)2月26日に景観重要建造物へ移行した。いずれも景観にかかわる制度である。名古屋市が公開する国指定、国登録、県指定、県登録、市指定、市登録の各文化財一覧に、この名前は見あたらない。一方、公益社団法人土木学会は2015年度(平成27年度)の選奨土木遺産に選び、名称に庄内用水元圦樋門の表記を用いる。 現在、庄内川をせき止めて水位を上げる役目は庄内用水頭首工が担う。守山区役所の案内は、頭首工が明治10年の木柵と石積による仮堰に始まり、洪水のたびに壊れては直す繰り返しを経て、昭和29年(1954)に現在の形になったと述べる。愛知県総合教育センターの教材は、昭和63年(1988)に新しい樋門が築造されて明治の樋門は機能の上で不要となり、その後は明治の遺産として保存されたと記す。明治の樋門は大部分が堤防の下に埋もれており、外から目に入るのは樋門の口と、ゲートを昇降させる設備の一部である。 周辺は庄内川の河川管理施設が並ぶ一帯であり、堤防や管理用の通路には立入が制限される区画が含まれる。守山区役所は、瀬古西コース 明治の産業遺産と水屋を訪ねて、というまちあるきの順路にこの樋門を組み込み、印刷用の地図も配る。訪ねる場合は、公道と案内された順路の範囲から眺めるのが前提になる。

庄内用水元杁樋門(庄内川からの取水口)の位置を示す地図
この地点の地図(地理院タイルに地点を加筆)

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