下小田井の市 跡(西枇杷島問屋記念館)|何があった場所か
下小田井(しもおたい)の市は、庄内川の右岸、現在の愛知県清須市西枇杷島町一帯で開かれた青物市場である。名古屋市西区は、徳川家康が慶長16年(1611年)頃に清須市西枇杷島町へ開かせた市がその始まりであると説明する。清須市も、山田家が野口家とともに下小田井の市を支えた中心的な存在であったと記す。市が立った場所は美濃路の道筋にあたり、尾張平野を背後に控えた物資の集散地であった。 日本大百科全書は、慶長16年に家康の勧めで青物や魚などの問屋2軒ができ、元和8年(1622年)に尾張藩主徳川義直の命で庄内川に枇杷島橋が架けられ、同時に問屋6軒へ特権が与えられたと解説する。同書によれば問屋は18世紀ごろに38軒まで増え、城下町へ売る市場特権を握った。清須市指定文化財の問屋制札は、宝暦6年(1756年)の市場定法を記した札で、営業時間や商いの方法など4か条を定める。 近代に入ると市の姿は変わる。清須市の説明では、天保13年(1842年)の株仲間解散で問屋は一度閉鎖され、安政5年(1858年)に再開した。明治42年(1909年)12月に枇杷島市場問屋業組合が愛知県へ市場開設を出願し、翌43年1月に認可される。同組合が作った枇杷島市場規程は全27か条からなり、各問屋の店先に掲げられた。 やがて市そのものが西枇杷島の地を離れる。名古屋市西区の説明によれば、昭和30年(1955年)に市は庄内川を渡って枇杷島へ移り、枇杷島青果市場が開場した。さらに昭和58年(1983年)、豊山町の北部市場開場にともなって枇杷島青果市場は閉鎖され、その跡地は市営住宅、スポーツセンター、公園へと姿を変えた。名古屋市西区で枇杷島の名と市場が結び付けて語られるのは、この移転後の市場によるものである。 痕跡は西岸に厚く残る。清須市西枇杷島町西六軒20番地には、市の創始者の一人といわれる山田九左衛門家の住居を平成4年(1992年)に移築復元した西枇杷島問屋記念館が建ち、入場無料で公開される。清須市指定文化財の美濃路道標は、文政10年(1827年)に旧枇杷島橋の小橋のたもとへ立てられた高さ173センチメートルの御影石の石柱で、現在は市内の市場モニュメントの脇に立つ。さらに清須市の住居表示には、問屋、南問屋、西六軒、東六軒、南六軒、小田井といった町名が現役で並び、市の骨格を地名として今に伝える。訪ねる場合は、開館時間と休館日を清須市の案内であらかじめ確かめておきたい。

時のながれ
- 1611年(慶長16)頃 — 徳川家康の勧めにより、現在の清須市西枇杷島町に青物などの問屋が開かれる
- 1622年(元和8) — 尾張藩主徳川義直の命で庄内川に枇杷島橋が架けられ、問屋6軒に特権が与えられる
- 1756年(宝暦6) — 市場定法を記した問屋制札が定められる(現在は清須市指定文化財)
- 1842年(天保13) — 株仲間解散により問屋が一度閉鎖される(1858年に再開)
- 1910年(明治43) — 枇杷島市場問屋業組合の市場開設が愛知県に認可される
- 1955年(昭和30) — 市が庄内川を渡って名古屋市西区枇杷島へ移り、枇杷島青果市場が開場する
- 1983年(昭和58) — 豊山町の北部市場開場にともない枇杷島青果市場が閉鎖される
- 1992年(平成4) — 山田九左衛門家の住居を移築復元した西枇杷島問屋記念館が開く
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 清須市(西枇杷島問屋記念館)は、所在地を清須市西枇杷島町西六軒20番地とし、下小田井の市の創始者の一人といわれる山田九左衛門家の住居を平成4年(1992年)に移築復元したものと記す。入場は無料である。
- 名古屋市西区(枇杷島学区の紹介)は、徳川家康が慶長16年(1611年)頃に清須市西枇杷島町へ開かせた下小田井の市が始まりであり、昭和30年(1955年)に枇杷島へ移って枇杷島青果市場が開場、昭和58年(1983年)に北部市場の開場により閉鎖され、跡地は市営住宅、スポーツセンター、公園に変わったと記す。
- 清須市(文化財紹介)は、美濃路道標を市指定文化財第8号とし、文政10年(1827年)に旧枇杷島橋の小橋のたもとへ立てられた高さ173センチメートルの御影石の石柱で、現在は市内の市場モニュメントの脇に立つと記す。
- 清須市(文化財紹介)は、問屋制札を市指定文化財第7号とし、宝暦6年(1756年)の市場定法を記したもので4か条が書かれると記す。枇杷島市場規程は市指定文化財第22号で、明治43年(1910年)に枇杷島市場問屋業組合が作り全27か条からなると記す。
- 清須市(文化財紹介)は、小川伝七家文書について、天保13年(1842年)の株仲間解散による問屋閉鎖から安政5年(1858年)の問屋再開までの16年間の記録であると記す。
- 日本大百科全書(小学館)は、慶長16年に家康の勧めで問屋2軒ができ、元和8年(1622年)に徳川義直の命で枇杷島橋が架設されて問屋6軒に特権が与えられ、18世紀ごろには38軒に増えたと解説する。あわせて下小田井を庄内川対岸の現在の清須市西枇杷島町地区と明記する。
- 清須市(西枇杷島町の場合・住居表示)は、現行の町名として西枇杷島町問屋、西枇杷島町南問屋、西枇杷島町西六軒、西枇杷島町東六軒、西枇杷島町南六軒、西枇杷島町小田井一丁目から三丁目を挙げる。
そのため、このページではこうしています
- 所在の自治体は清須市とした。名古屋市西区は昭和30年以降の移転先であり、江戸期の市が立った場所ではない。名古屋市西区自身が、市の開設地を清須市西枇杷島町と明記する。
- 座標は、清須市西枇杷島町西六軒20番地に対して国土地理院の住所検索が返す地点を採った。
- 記念館の建物は移築復元であり、市が立った当時の位置そのものではない。地点は記念館の住所に置き、町名と道標を面としての痕跡として示した。
- 三大市場の対比先は資料によって分かれるため、対比先そのものを挙げない書き方とした。
- 見学は開館時間の範囲による。休館日と時間は清須市の案内による。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 市場モニュメントの正確な所在地は確認できなかった。清須市は市内の市場モニュメントの脇とのみ記し、番地の記載が見あたらない。
- 日本三大青物市場という語そのものは、公的な資料に見あたらない。近い言い方として、清須市と名古屋市西区の日本三大市場、清須市観光協会の日本三大青物市が確認できる。
- 六軒という町名が問屋6軒に由来するとの明記は、日本大百科全書が問屋6軒に括弧書きで六軒町を併記するほかに、自治体の資料で確認できなかった。
- 下小田井の市の終わりの年を単独で明記する自治体の資料は確認できなかった。昭和30年の移転をもって区切りとする書き方が中心である。
- 三大市場の対比先が割れる。清須市と名古屋市西区は江戸の神田と大阪の天満を挙げるが、広報なごや平成24年11月号西区版に載る住民の寄稿は東京の築地と大阪の堂島を挙げる。呼称も、清須市と名古屋市西区は日本三大市場、清須市観光協会は日本三大青物市と記す。
- 記念館の年次が割れる。清須市は平成4年(1992年)の移築復元と記すが、日本大百科全書は1990年に問屋記念館が開館したと解説する。
- 続いた年数が割れる。清須市は小川伝七家文書の解説で下小田井の市の三百余年という長いあゆみと記す一方、枇杷島市場開設命令書の解説では江戸時代初期から230年続いてきた問屋と記す。
- 昭和30年の扱いが割れる。名古屋市西区は枇杷島へ移り枇杷島青果市場が開場したと記すが、日本大百科全書は名古屋市西区に中央卸売市場ができるとともに姿を消したと解説する。
- 創始者の出自について、広報なごや平成23年および24年の西区版に載る住民の寄稿は、市場を始めたのは東枇杷島側の人であり従来の西枇杷島側の説を覆す古文書を発見したと述べる。自治体の公式の説明は西枇杷島側で一貫しており、この寄稿は今後の郷土史の発掘への期待を述べる文脈にある。
参考・出典
- 西枇杷島問屋記念館
清須市 - 文化財紹介
清須市 - 西枇杷島町の場合(住居表示)
清須市 - 枇杷島学区(西区)の紹介
名古屋市西区 - 枇杷島(びわじま) 日本大百科全書
小学館 日本大百科全書(コトバンク所収) - 西枇杷島(にしびわじま) 日本大百科全書
小学館 日本大百科全書(コトバンク所収) - 市場繁栄の秘密 南部ルート モデルコース
清須市観光協会
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
近くの痕跡
- 四間道(しけみち・元禄の大火のあと四間に広げたと伝わる道)(地の痕跡・約3.5km)
- 名古屋城の初代金鯱(空襲で溶けた雄と、降ろされていた雌)(戦の痕跡・約3.5km)
- 笹島(ささしま)(地の痕跡・約3.7km)
- 那古野城跡(名古屋城より前に、ここにあった城)(戦の痕跡・約3.8km)