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下小田井の市 跡(西枇杷島問屋記念館)|何があった場所か

位置精度: 地点特定 / 最終確認日: 2026-09-08

下小田井(しもおたい)の市は、庄内川の右岸、現在の愛知県清須市西枇杷島町一帯で開かれた青物市場である。名古屋市西区は、徳川家康が慶長16年(1611年)頃に清須市西枇杷島町へ開かせた市がその始まりであると説明する。清須市も、山田家が野口家とともに下小田井の市を支えた中心的な存在であったと記す。市が立った場所は美濃路の道筋にあたり、尾張平野を背後に控えた物資の集散地であった。 日本大百科全書は、慶長16年に家康の勧めで青物や魚などの問屋2軒ができ、元和8年(1622年)に尾張藩主徳川義直の命で庄内川に枇杷島橋が架けられ、同時に問屋6軒へ特権が与えられたと解説する。同書によれば問屋は18世紀ごろに38軒まで増え、城下町へ売る市場特権を握った。清須市指定文化財の問屋制札は、宝暦6年(1756年)の市場定法を記した札で、営業時間や商いの方法など4か条を定める。 近代に入ると市の姿は変わる。清須市の説明では、天保13年(1842年)の株仲間解散で問屋は一度閉鎖され、安政5年(1858年)に再開した。明治42年(1909年)12月に枇杷島市場問屋業組合が愛知県へ市場開設を出願し、翌43年1月に認可される。同組合が作った枇杷島市場規程は全27か条からなり、各問屋の店先に掲げられた。 やがて市そのものが西枇杷島の地を離れる。名古屋市西区の説明によれば、昭和30年(1955年)に市は庄内川を渡って枇杷島へ移り、枇杷島青果市場が開場した。さらに昭和58年(1983年)、豊山町の北部市場開場にともなって枇杷島青果市場は閉鎖され、その跡地は市営住宅、スポーツセンター、公園へと姿を変えた。名古屋市西区で枇杷島の名と市場が結び付けて語られるのは、この移転後の市場によるものである。 痕跡は西岸に厚く残る。清須市西枇杷島町西六軒20番地には、市の創始者の一人といわれる山田九左衛門家の住居を平成4年(1992年)に移築復元した西枇杷島問屋記念館が建ち、入場無料で公開される。清須市指定文化財の美濃路道標は、文政10年(1827年)に旧枇杷島橋の小橋のたもとへ立てられた高さ173センチメートルの御影石の石柱で、現在は市内の市場モニュメントの脇に立つ。さらに清須市の住居表示には、問屋、南問屋、西六軒、東六軒、南六軒、小田井といった町名が現役で並び、市の骨格を地名として今に伝える。訪ねる場合は、開館時間と休館日を清須市の案内であらかじめ確かめておきたい。

下小田井の市 跡(西枇杷島問屋記念館)の位置を示す地図
この地点の地図(地理院タイルに地点を加筆)

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