← 痕跡マップ(地図)へ
戦 戦の痕跡 資料確認済み

見晴台遺跡(弥生の環濠集落跡と高射砲陣地の跡)|何があった場所か

位置精度: 地点特定 / 最終確認日: 2026-09-06

名古屋市南区見晴町、笠寺台地の南端に笠寺公園がある。名古屋市南区の案内は、この一帯を面積約3ヘクタール・高さ約15メートルの平坦な舌状台地と記し、そこに広がる見晴台遺跡から約2万年前の旧石器時代から昭和時代までの遺物・遺構が発掘されたと記す。ひとつの台地に、弥生時代のムラと太平洋戦争の陣地が重なって埋まっている場所である。 まず弥生時代の側から見る。名古屋市の解説によれば、見晴台遺跡は旧石器時代から室町時代にわたる遺跡で、遺構の中心は弥生時代中期から古墳時代初頭、およそ2000年前から1700年前にあたる。弥生時代後期には竪穴住居が数多く営まれ、ムラの周りを取り囲む濠が掘削された。同市はこの環濠について、断面がV字形で幅約4メートル・深さ約4メートル、全体では直径200メートルほどの規模と記す。北西側では濠が複数掘られており、第50次から第51次の調査でも環濠が平行に掘られている状況が確認された。竪穴住居跡はこれまでに220軒以上を数えるという。 次に戦争の側から見る。名古屋市は、太平洋戦争の間、見晴台遺跡付近に本土防衛のための高射砲陣地が築かれ、現在も笠寺公園内に高射砲の台座が残ると記す。同市はこの構造物を「笠寺公園高射砲砲座」の名で認定地域建造物資産の第24号に認定した。認定年月日は平成23年10月17日、年代は昭和17年(1942)、構造はRC造、所在地は南区見晴町(笠寺公園内)である。認定台帳の特徴欄には「見晴台遺跡には、古代から現在までの多様な遺跡が残る。高射砲砲座は、戦争の記憶を現在に伝えるものであり、平和を考える上で大切な建造物である」とある。これは文化財の指定ではなく、名古屋市が歴史性・物語性などの観点から独自に認定する制度である。中日新聞は2022年7月15日の連載「語り続ける戦争遺跡」で、公園の一角に直径約3メートル・八角形のコンクリートが残ると伝え、これを米軍の空襲から名古屋の軍需工場などを守るための高射砲の土台と記す。 この場所が独特なのは、戦争の痕跡が発掘によって地中から出てきた点にある。名古屋市によれば見晴台遺跡の調査は昭和39年に始まり、調査のほぼ全過程を市民が担う「市民発掘」の形で半世紀以上続けられてきた。同市が公開する資料館の刊行物一覧を追うと、第31次調査では内側と外側の環濠を同時に確認するとともに、笠寺陣地の兵舎の風呂場と考えられる遺構が見つかった。第39次調査は、高射砲の木製模擬弾が出土したため途中で終了した。第42次・第43次調査では戦時中の交通壕が良好な状態で残り、報告書には付編「笠寺高射砲陣地東半部の様相」が収められた。第44次から第48次の調査では、高射砲陣地の観測兵器用の遺構やB29の機体の一部も見つかったという。弥生土器と軍の遺物が同じ土から出てくるわけである。 見学は難しくない。笠寺公園は公共の公園で、砲座はその園内にある。園内の名古屋市見晴台考古資料館(南区見晴町47)は入館無料、開館は午前9時15分から午後5時まで、休館日は毎週月曜日(休日にあたるときはその翌平日)と毎月第4火曜日、年末年始である。館内の「住居跡観察舎」には竪穴住居が再現されている。名鉄名古屋本線「本笠寺」駅から東へ徒歩10分、市バス「弥生町」から西へ徒歩7分。市民発掘の現場は、実施期間中であれば参加者以外も見学できると同館は案内する。

見晴台遺跡(弥生の環濠集落跡と高射砲陣地の跡)の位置を示す地図
この地点の地図(地理院タイルに地点を加筆)

時のながれ

編集部の調査メモ

このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。

資料で確認できたこと

そのため、このページではこうしています

現地確認: 未実施

❓まだ分かっていないこと

この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。

ご存知のことがあれば情報をお寄せください

参考・出典

地図で見る →

近くの痕跡

名古屋市南区 の痕跡一覧を見る →

あなたの住所には、どんな痕跡が眠っているでしょうか。

あなたの住所の痕跡濃度を測る →

本ページの位置情報・年代・経緯は概略です。掲載内容の確からしさは、ページ内の根拠ラベル(資料確認済み・資料候補・伝承・噂)の区分をご確認ください。 私有地への立ち入りを目的とした利用はご遠慮ください。誤りのご指摘・削除依頼は運営までご連絡ください。