見晴台遺跡(弥生の環濠集落跡と高射砲陣地の跡)|何があった場所か
名古屋市南区見晴町、笠寺台地の南端に笠寺公園がある。名古屋市南区の案内は、この一帯を面積約3ヘクタール・高さ約15メートルの平坦な舌状台地と記し、そこに広がる見晴台遺跡から約2万年前の旧石器時代から昭和時代までの遺物・遺構が発掘されたと記す。ひとつの台地に、弥生時代のムラと太平洋戦争の陣地が重なって埋まっている場所である。 まず弥生時代の側から見る。名古屋市の解説によれば、見晴台遺跡は旧石器時代から室町時代にわたる遺跡で、遺構の中心は弥生時代中期から古墳時代初頭、およそ2000年前から1700年前にあたる。弥生時代後期には竪穴住居が数多く営まれ、ムラの周りを取り囲む濠が掘削された。同市はこの環濠について、断面がV字形で幅約4メートル・深さ約4メートル、全体では直径200メートルほどの規模と記す。北西側では濠が複数掘られており、第50次から第51次の調査でも環濠が平行に掘られている状況が確認された。竪穴住居跡はこれまでに220軒以上を数えるという。 次に戦争の側から見る。名古屋市は、太平洋戦争の間、見晴台遺跡付近に本土防衛のための高射砲陣地が築かれ、現在も笠寺公園内に高射砲の台座が残ると記す。同市はこの構造物を「笠寺公園高射砲砲座」の名で認定地域建造物資産の第24号に認定した。認定年月日は平成23年10月17日、年代は昭和17年(1942)、構造はRC造、所在地は南区見晴町(笠寺公園内)である。認定台帳の特徴欄には「見晴台遺跡には、古代から現在までの多様な遺跡が残る。高射砲砲座は、戦争の記憶を現在に伝えるものであり、平和を考える上で大切な建造物である」とある。これは文化財の指定ではなく、名古屋市が歴史性・物語性などの観点から独自に認定する制度である。中日新聞は2022年7月15日の連載「語り続ける戦争遺跡」で、公園の一角に直径約3メートル・八角形のコンクリートが残ると伝え、これを米軍の空襲から名古屋の軍需工場などを守るための高射砲の土台と記す。 この場所が独特なのは、戦争の痕跡が発掘によって地中から出てきた点にある。名古屋市によれば見晴台遺跡の調査は昭和39年に始まり、調査のほぼ全過程を市民が担う「市民発掘」の形で半世紀以上続けられてきた。同市が公開する資料館の刊行物一覧を追うと、第31次調査では内側と外側の環濠を同時に確認するとともに、笠寺陣地の兵舎の風呂場と考えられる遺構が見つかった。第39次調査は、高射砲の木製模擬弾が出土したため途中で終了した。第42次・第43次調査では戦時中の交通壕が良好な状態で残り、報告書には付編「笠寺高射砲陣地東半部の様相」が収められた。第44次から第48次の調査では、高射砲陣地の観測兵器用の遺構やB29の機体の一部も見つかったという。弥生土器と軍の遺物が同じ土から出てくるわけである。 見学は難しくない。笠寺公園は公共の公園で、砲座はその園内にある。園内の名古屋市見晴台考古資料館(南区見晴町47)は入館無料、開館は午前9時15分から午後5時まで、休館日は毎週月曜日(休日にあたるときはその翌平日)と毎月第4火曜日、年末年始である。館内の「住居跡観察舎」には竪穴住居が再現されている。名鉄名古屋本線「本笠寺」駅から東へ徒歩10分、市バス「弥生町」から西へ徒歩7分。市民発掘の現場は、実施期間中であれば参加者以外も見学できると同館は案内する。

時のながれ
- 弥生時代後期(およそ2000年前) — ムラの周りを取り囲む濠が掘削される。名古屋市は断面V字形・幅約4メートル・深さ約4メートル、全体で直径200メートルほどの規模と記す。
- 1941年(昭和16) — 当時全国2例目であった銅鐸形の土製品が発見され、遺跡が注目を集める。
- 1942年(昭和17) — 笠寺公園高射砲砲座の年代とされる年。太平洋戦争の間、本土防衛のための高射砲陣地がこの付近に築かれる。
- 1947年(昭和22) — 遺跡周辺を笠寺公園として整備することが決まる。
- 1964年(昭和39) — 最初の発掘調査が行われる。第1次から第3次調査では台地東側で環濠や住居跡が確認された。
- 1971年(昭和46) — 87,000平方メートルを歴史公園として整備する方針が決定し、以後は整備計画と連動して調査が進む。
- 1979年(昭和54)10月 — 見晴台考古資料館が笠寺公園の中に建設される。第19次調査からは同館が主体となり、広く市民から参加を募って調査が続く。
- 2011年(平成23)10月17日 — 名古屋市が「笠寺公園高射砲砲座」を認定地域建造物資産の第24号に認定する。
- 2024年(令和6) — 愛知・名古屋 戦争に関する資料館で企画展示「高射砲陣地跡を発掘する-笠寺陣地と太佐山陣地-」が7月12日から11月10日まで開かれる。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 名古屋市「見晴台遺跡市民発掘の歴史」(ページID1016056)は、環濠を断面V字形・幅約4メートル・深さ約4メートル、全体で直径200メートルほどの規模と記す。北西側では濠が複数掘られ、第50次から第51次調査でも環濠が平行に掘られている状況が確認された。竪穴住居跡は220軒以上。
- 同ページは最初の発掘調査を昭和39年と記し、昭和16年に全国2例目の銅鐸形土製品が発見されたこと、昭和22年に遺跡周辺を笠寺公園として整備することが決まったこと、昭和46年に87,000平方メートルを歴史公園として整備する方針が決定したこと、昭和54年の資料館開館以降は第19次調査から資料館が主体となったことを記す。
- 同ページは「太平洋戦争の間には見晴台遺跡付近は、本土防衛のための高射砲陣地が築かれました。現在でも笠寺公園内には高射砲の台座が残されています」と記す。
- 名古屋市「笠寺公園高射砲砲座」(ページID1017285、更新日2025年10月16日)は、認定番号 第24号、認定年月日 平成23年10月17日、所在地 名古屋市南区見晴町(笠寺公園内)、年代 昭和17年(1942)、構造等 RC造と記す。特徴欄は「高射砲砲座は、戦争の記憶を現在に伝えるものであり、平和を考える上で大切な建造物である」。
- 名古屋市「認定地域建造物資産とは」(ページID1017345、更新日2026年5月20日)は、認定要件に「歴史性、物語性を有するもの」を挙げ、令和8年3月31日時点で第130号まで認定したこと、現状変更・権利移転時は市長への届出が必要であることを記す。文化財保護法の指定制度とは別の、名古屋市独自の認定制度である。
- 名古屋市「名古屋市見晴台考古資料館 刊行物のご案内」(ページID1016057)に、第31次調査で内環濠と外環濠を同時確認かつ「笠寺陣地の兵舎の風呂場遺構」、第39次調査は「高射砲の木製模擬弾が出土したため、途中で調査が終了」、第42・43次調査で「戦時中の交通壕もきれいに残されていました」および付編「笠寺高射砲陣地東半部の様相」、第44〜48次調査で「高射砲陣地の観測兵器用の遺構やB29の機体の一部も見つかりました」と記される。
- 同刊行物一覧に、研究紀要第12号(2010年3月31日刊行)「見晴台遺跡北西部の濠状遺構と北東部の高射砲陣地跡」(伊藤厚史)、第13号(2011年3月30日刊行)「見晴台遺跡の高射砲陣地跡」(伊藤厚史)、第17号(2023年3月15日刊行)「『B29尾翼破片』の再考」(川田春菜)が掲載されている。
- 名古屋市「名古屋市見晴台考古資料館 施設案内」(ページID1033900、更新日2026年9月1日)は、所在地 〒457-0026 名古屋市南区見晴町47、開館時間 午前9時15分から午後5時、入館料 無料、休館日 毎週月曜日(休日にあたるときはその翌平日)・毎月第4火曜日(休日を除く)・年末年始(12月29日から1月3日)、駐車場21台無料、電話052-823-3200と記す。令和8年度市民発掘調査は10月1日から11月1日までの木・金・土・日・祝で、現場は参加者以外も期間中見学可能と案内する。
- 名古屋市南区「見晴台遺跡と見晴台考古資料館」(ページID1023911)は、遺跡を面積約3ヘクタール・高さ約15メートルの舌状台地上と記し、資料館が昭和54年(1979年)10月に笠寺公園の中に建設されたこと、「住居跡観察舎」に竪穴住居が再現されていることを記す。
- 中日新聞2022年7月15日付「笠寺高射砲陣地跡(名古屋市南区)」(戦後77年特集・語り続ける戦争遺跡)の冒頭に「笠寺公園(名古屋市南区)の一角に、直径約3メートル、八角形をしたコンクリートが1基残されている」とある。
- 愛知県および名古屋市の2024年7月10日発表資料により、愛知・名古屋 戦争に関する資料館(愛知県庁大津橋分室1階)で企画展示「高射砲陣地跡を発掘する-笠寺陣地と太佐山陣地-」が2024年7月12日から11月10日まで開催されたことを確認した。同館は愛知県と名古屋市が2015年4月に共同設置した戦争に関する資料館運営協議会の主催。
- 座標は国土地理院の住所検索で「愛知県名古屋市南区見晴町47番地」を照会し、経度136.939896・緯度35.099117を得た。OpenStreetMapの笠寺公園(way 733633603)は緯度35.0998・経度136.9405、外接矩形は緯度35.0979〜35.1010・経度136.9384〜136.9420で、資料館の点は公園内に収まる。
そのため、このページではこうしています
- 資料が割れる砲座の基数と門数は本文に書かず、名古屋市の言い方どおり「高射砲の台座が残る」と示した。
- 見晴台遺跡は文化財の指定を受けていないため、名古屋市の認定地域建造物資産という別制度である旨を本文に明記した。
- 笠寺公園と資料館はいずれも公共の施設であるため、開館時間・休館日・入館無料・交通手段を本文の最後にまとめて示した。
- 同じ南区にある年魚市潟に関する話題と地名の由来には踏み込まず、環濠集落の跡と高射砲陣地の跡の二点に主題を絞った。
- 空襲や戦闘の情景描写は書かず、名古屋市・中日新聞・愛知県の各資料が記す事実のみを並べた。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 高射砲の門数。6門とする記述がウィキペディアや個人サイトに見られるが、名古屋市・愛知県・文化庁のいずれの公的資料でも確認できなかった。愛知県の2024年7月10日発表資料の本文にも門数の記載は見あたらない(門数を含む記述は添付PDFのちらし側にある可能性があるが、当該PDFは現行サイト・Wayback Machineとも取得できなかった)。
- 現存する砲座の基数。名古屋市の各ページは「台座が残されています」「砲座などが残る」と記すのみで基数の記載が見あたらない。
- 砲側弾薬庫が現地に保存されているかどうか。ウィキペディアは保存されていると記すが、名古屋市の公的資料に該当する記述が見あたらなかったため本文には書かなかった。
- 砲座そのものに接近して見学できるか(柵・立入制限の有無)。名古屋市の各ページに見学可否の明記が見あたらない。笠寺公園が公共の公園であること、資料館が入館無料で公開されていることのみを本文に書いた。
- 見晴台遺跡および笠寺公園高射砲砲座について、名古屋市の国指定文化財一覧・市指定文化財一覧のいずれにも該当項目が見あたらなかった。国・県・市の文化財指定は受けていないと考えられる。
- 現存する砲座の基数について資料が食い違う。中日新聞2022年7月15日付は「直径約3メートル、八角形をしたコンクリートが1基残されている」と記す一方、ウィキペディアは「2基の砲座跡と砲側弾薬庫が公園内に保存されている」と記す。名古屋市の公的資料は基数を示していない。
- 環濠の規模について、名古屋市は「直径200メートルほど」と記すのに対し、ウィキペディアは「東西約120メートル、南北約200メートル」と記す。
参考・出典
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
近くの痕跡
- 年魚市潟(あゆちがた)跡(万葉集に詠まれた干潟と、それを見下ろした高台)(水の痕跡・約1.5km)
- くつ塚(伊勢湾台風殉難者慰霊之碑)(水の痕跡・約2.0km)
- 七里の渡し跡(宮の渡し公園・東海道唯一の海路の発着地)(水の痕跡・約3.7km)
- 大高城跡(附 丸根砦跡・鷲津砦跡)(戦の痕跡・約3.9km)