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七里の渡し跡(宮の渡し公園・東海道唯一の海路の発着地)|何があった場所か

位置精度: 地点特定 / 最終確認日: 2026-09-06

東海道は江戸から京都までを陸路でつないだが、宮宿(名古屋市熱田区)と桑名宿(三重県桑名市)の間だけは船で渡った。名古屋市熱田区役所は、この区間を宮宿と桑名宿を結ぶ東海道唯一の海路とし、距離が七里(27.5km)であったことから七里の渡しと名付けられたと記す。ただし同区は、航路が満潮時の内回りと干潮時の外回りの二通りに分かれ、呼び名どおり七里きっかりの距離とは限らず、七里は通称であるとも明記する。所要時間は順調で4時間から6時間ほど、正徳元年(1711)5月の記録では、桑名までの船賃が旅人1人45文、荷物1駄100文、馬1頭が口取足付きで123文と決められていたと同区は挙げる。船旅を避ける者のために佐屋街道という陸路の迂回路も用意され、婦人や子どもが多く通ったことから姫街道とも呼ばれたと同区は記す。 その発着地の跡が宮の渡し公園である。名古屋市の都市公園一覧(令和8年4月1日現在)は、所在地を熱田区内田町・神戸町、面積0.62ヘクタール、開園年度を昭和60年度と示す。園内でまず目に入るのは高い常夜灯だが、これは江戸期の現物ではない。名古屋市は平成23年10月17日にこれを認定地域建造物資産の第23号に認定し、年代を昭和30年(1955)、特徴を「承応3年(1654)この地に建てられた熱田湊常夜灯を昭和30年に復元」と記載する。一方、同じ名古屋市でも熱田区役所の史跡散策路の解説は「寛永2年(1625)に常夜灯が建てられ船の出入りの目印とした」と記す。愛知県の公式観光サイトは、寛永2年に犬山城主が熱田須賀浦の太子堂(聖徳寺)の隣地に建てたものが風害で破損し、承応3年から現在の位置に移り、火災と荒廃を経て昭和30年に当時とほぼ同じ位置へ復元されたと説明する。二つの年号は建立地の違いと読める。 隣に立つ時の鐘の鐘楼も復元である。熱田区役所は蔵福寺について「延宝4年(1676)、当初は市民の生活のため、後には七里の渡し航行のためにも使われた、時を告げる鐘を設置。鐘楼は戦災で焼失したが、鐘は残る」と記す。江戸期の鐘そのものは今も蔵福寺にあり、公園の鐘楼は昭和58年の復元だと愛知県の公式観光サイトは説明する。桟橋も復元であり、園内に江戸期の構造物の現物は見あたらない。 公園の一角には、熱田区が令和3年11月21日に除幕した銘板がある。同区はここで、寛永元年(1624)に初代尾張藩主徳川義直の命で神戸の浜を埋め立てて出島がつくられ東浜御殿が造営されたという説と、その位置が現在の内田町付近と推定されることを挙げる。熱田湊そのものについても同区は、江戸時代の熱田が東海道の渡津として尾張最大の港になり、尾張藩が熱田奉行所を置き、船奉行の下に船番所・船会所を配して旅人や貨物の検察にあたったと記す。 宮宿の規模について、愛知県は熱田宿を江戸日本橋から41番目の宿場とし、天保14年(1843)の記録で本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠248軒があり東海道随一の規模を誇ったと記す。同県は同時に、戦災と戦後復興、道路の敷設によって東海道や町が分断されたとも記す。海はすでに遠く、公園の前を流れるのは名古屋港へ注ぐ堀川である。復元の常夜灯と鐘楼、そして小さな桟橋だけが、ここが尾張の海の玄関だったことを示す。

七里の渡し跡(宮の渡し公園・東海道唯一の海路の発着地)の位置を示す地図
この地点の地図(地理院タイルに地点を加筆)

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