年魚市潟(あゆちがた)跡(万葉集に詠まれた干潟と、それを見下ろした高台)|何があった場所か
名古屋市の中央部に広がる標高十数メートルの台地。その南のへりから先には、かつて年魚市潟(あゆちがた)と呼ばれる伊勢湾の干潟が広がり、万葉集にも歌われた。江戸時代以降の干拓と近代の埋め立てで海は退き、今は住宅と工場の市街地になっている。白毫寺の境内はその海を見下ろした高台にあたり、名古屋市の名勝に指定されている。
時のながれ
- 奈良時代 — 『万葉集』巻三・二七一に、高市黒人の歌として「桜田へ鶴鳴き渡る年魚市潟潮干にけらし鶴鳴き渡る」が収められる。
- 江戸時代 — 名古屋市の資料によれば、伊勢湾は内田橋あたりまで入り込み、熱田の宮宿は桑名との海上交通である七里の渡しの港としてにぎわった。干拓が活発になるのもこの時代で、国道1号線より南の一帯は水田として開発された。
- 明治5年(1872) — 太政官布告第百八号により名古屋県が愛知県と改称された。愛知県図書館の調査によれば、県名は県庁所在地の郡名である愛知郡から採られたもので、その愛知郡の名は年魚市潟のあゆちに由来すると言われている。
- 大正9年(1920) — 白毫寺の説明によれば、愛知県によって名勝の地を示す大きな石標が境内に建てられ、同じ年に呼続の有志が黒田清綱の歌碑を建てた。
- 昭和48年(1973) — 10月15日、名古屋市が白毫寺境内の279.60平方メートルを名勝 旧「年魚市潟」展望地 に指定した。
- 現在 — 国土地理院の標高データでは、白毫寺の境内が標高10.8メートルであるのに対し、西へ約2キロ離れた南区道徳付近はマイナス0.8メートルで、台地と低地の落差がそのまま残っている。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 名古屋市公式サイトの市指定文化財一覧は、名勝 旧「年魚市潟」展望地について、所在地を南区岩戸町7番19号、所有者・管理者を白毫寺、指定年月日を昭和48年10月15日、面積を279.60平方メートルと記載している。
- 名古屋市南区公式サイトの年魚市潟勝景跡(あゆちがたしょうけいあと)のページは、白毫寺が元亀2年(1571年)の創建と伝えられること、このあたりがあゆち潟と知多の浦を望む勝景の地であったこと、境内に勝景跡の碑や歌碑、芭蕉句碑が点在することを説明している。
- 曹洞宗白毫寺の公式サイトは所在地を愛知県名古屋市南区岩戸町7-19と記載し、境内の石碑を年魚市潟勝景碑、黒田清綱の歌碑を大正九年に呼続の有志が建てたものと説明しており、番地は名古屋市の文化財一覧の記載と一致する。
- 愛知県公式サイトのあいちのおいたちは、万葉集巻三の高市黒人の歌に詠まれた年魚市潟のあゆちがあいちに転じたと言われています、という言い方でこの説を紹介している。
- 国立国会図書館のレファレンス協同データベースに登録された愛知県図書館の事例は、愛知県史 通史編6 や愛知県公文書館の資料を引き、明治5年4月2日の太政官布告第百八号で名古屋県が愛知県と改称され、県名は県庁所在地の郡名である愛知郡に由来すると回答している。
- コトバンク所収の日本歴史地名大系は年魚市潟を熱田台地南方の海浜から天白川下流域の鳴海浦に続く浅海の地に比定し、精選版日本国語大辞典は万葉集三・二七一を初出として名古屋市南区あたりにあった入り海と説明している。
- 名古屋市公式サイトの名古屋市の地形と気候は、市中央部が標高10から15メートルの台地であること、台地の南方一帯が古代には干潟のような景観だったらしいこと、江戸時代には伊勢湾が内田橋あたりまで入り込んでいたこと、干拓などによって現在の海岸線が形成されたことを説明している。
- 国土地理院の標高データでは白毫寺の番地地点が標高10.8メートル、約500メートル北の名鉄呼続駅付近が3メートル、西へ約2キロの南区道徳付近がマイナス0.8メートルで、名古屋市南区公式サイトが笠寺台地南端で高さ約15メートルとする見晴台遺跡の数値ともおおむね整合する。
そのため、このページではこうしています
- 座標は、国土地理院の住所検索サービスで愛知県名古屋市南区岩戸町7番19号を検索した結果である北緯35.110050、東経136.930023で、名古屋市の文化財一覧が示す名勝の所在地と同じ番地にあたる。
- この座標から名鉄名古屋本線の呼続駅までは約506メートル南で、白毫寺は呼続駅から南へ600メートルほどの高台にあるという地図上の位置関係と矛盾しない。
- 年魚市潟そのものは熱田区から南区、さらに天白川下流域へ広がる広い範囲を指すため、この座標は干潟の中心ではなく、干潟を見下ろした高台の代表点である。
- 標高の数値はいずれも国土地理院の標高サービスによるもので、出典は5メートルメッシュのレーザ計測データである。
- 名古屋市内には熱田区六番にも真宗大谷派の同名の白毫寺があるため、位置の取り違えに注意が必要である。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 年魚市潟勝景碑の建立を大正9年とする記述は白毫寺の公式サイトで確認できたが、名古屋市や愛知県の公的資料で建立年に触れた記述には到達できなかった。
- 碑面に実際に刻まれている文字列は、原文を確認できる資料に到達できず未確認である。
- 年魚市潟の旧海岸線を線として描いた国土地理院または名古屋市の公的な地図資料には到達できなかった。
- 笠寺台地を松巨島と呼ぶ言い方については、公的資料での裏づけに到達できなかった。
- 石碑の呼び方は資料によって揺れており、名古屋市南区公式サイトは年魚市潟勝景跡の碑、白毫寺公式サイトの一覧は年魚市潟勝景碑、同サイトの別の説明では年魚市潟景勝の地の石碑と説明している。
- 年魚市潟の範囲について、コトバンク所収の日本歴史地名大系は熱田台地南方の海浜から天白川下流域の鳴海浦に続く浅海の地とし、日本大百科全書は鏡味完二の説として熱田・御器所両台地の間の波静かな入り江とする。
- 万葉集の歌の帰属について、愛知県公式サイトと精選版日本国語大辞典は桜田への歌を巻三・二七一の高市黒人の歌とするが、レファレンス協同データベースに登録された愛知学院大学図書館情報センターの事例は作者と巻を入れ替えて回答している。
- 県名の由来の言い方も一様ではなく、名古屋市南区公式サイトはあゆちがあいちに転じ県名の語源となりましたと説明し、愛知県公式サイトは転じたと言われていますという言い方をとり、愛知県図書館の事例は直接には愛知郡の郡名から採ったと説明する。
参考・出典
- 年魚市潟勝景跡(あゆちがたしょうけいあと)(白毫寺(びゃくごうじ))
名古屋市南区 - 市指定文化財一覧
名古屋市 - 名古屋市の地形と気候
名古屋市 - 見晴台遺跡(みはらしだいいせき)と見晴台考古資料館
名古屋市南区 - あいちのおいたち
愛知県 - 明治4年に名古屋県ができてから短期間で愛知県と改称したが、その経緯や理由が知りたい(愛知県図書館の事例)
国立国会図書館 レファレンス協同データベース - 年魚市潟(アユチガタ)とは
コトバンク(日本歴史地名大系・日本大百科全書・精選版日本国語大辞典ほか) - 曹洞宗 白毫寺
曹洞宗 白毫寺 - 標高を求めるプログラム(標高API)
国土地理院
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
近くの痕跡
- くつ塚(伊勢湾台風殉難者慰霊之碑)(水の痕跡・約2.6km)
- 空襲跡の碑(熱田空襲の記憶・堀川千年プロムナード)(戦の痕跡・約3.0km)
- 大高城跡(附 丸根砦跡・鷲津砦跡)(戦の痕跡・約5.1km)
- 精進川の付け替えと新堀川(堀留・記念橋付近)(水の痕跡・約5.9km)