「松巨嶋」と刻まれた手洗鉢(熊野三社・呼続)|何があった場所か
名古屋市南区の呼続から笠寺にかけての高まりは、かつて松巨島(まつこじま)と呼ばれた。名古屋市は、熱田の方から眺めるとこの一帯が「松の大きな島」に見えたことから、この地名が伝えられていると記す。区の紹介でも、縄文・弥生のころこのあたりは大部分が海で「あゆち潟」と呼ばれていたとしている。
旧東海道ぞいに建つ熊野三社の社務所の中庭には、大きな字で「松巨嶋」と彫り、背面に「明和三丙戌歳(1766)」と刻んだ手洗鉢が残る。社そのものは、永禄年間(1558年から1570年)に山崎城主の佐久間信盛が守護神とした社を、寛永4年(1627年)に山崎村の氏神としてこの地へ移したものと名古屋市は記す。
海はとうに引いたが、土地の高さは残っている。国土地理院の標高データでは、社のあたりはおよそ12メートル、西へ400メートルほど下った山崎川ぞいは1メートルに満たない。手洗鉢の三文字は、この高まりを島の名で呼んでいたころの言い方を、石のかたちで今に伝えている。

近くの痕跡
- 年魚市潟(あゆちがた)跡(万葉集に詠まれた干潟と、それを見下ろした高台)(水の痕跡・約243m)
- 見晴台遺跡(弥生の環濠集落跡と高射砲陣地の跡)(戦の痕跡・約1.6km)
- 粕畑貝塚跡(土取りで消えた貝塚と、二つの名前)(地の痕跡・約1.8km)
- 山崎川の改修跡(鼎小橋とふるさとの川整備区間)(水の痕跡・約2.3km)
時のながれ
- 縄文・弥生時代 — このあたりは大部分が海で「あゆち潟」と呼ばれていたと名古屋市南区は記す。東部の笠寺台地は古代から開けており、遺跡も多く残る。
- 永禄年間(1558年から1570年) — 山崎城主の佐久間信盛が守護神とした社であったと名古屋市南区は記す。
- 寛永4年(1627年) — 山崎村の氏神としてこの地へ移されたと名古屋市南区は記す。
- 明和3年(1766年) — 手洗鉢の背面に「明和三丙戌歳」の年が刻まれる。表には大きな字で「松巨嶋」と彫られている。
- 現在 — 旧東海道ぞいに社が建ち、手洗鉢は社務所の中庭にある。海は引いたが、社のあたりと西の川ぞいとの高さの差は今も残る。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 名古屋市南区の熊野三社松巨島のページで、松巨島とは熱田方面から眺めるとこの一帯が「松の大きな島」に見えたことから伝えられた地名であると記されていることを確認した。
- 同じページで、社務所中庭に大きな字で「松巨嶋」と彫り背面に「明和三丙戌歳(1766)」と刻まれた手洗鉢があること、永禄年間(1558年から1570年)に山崎城城主 佐久間信盛が守護神とした社を寛永4年(1627年)に山崎村の氏神としてこの地に移したことを確認した。
- 名古屋市南区の東海道周辺めぐりのページで、この社が旧東海道ぞいの散策路の立ち寄り先に挙げられ、年魚市潟勝景跡や笠寺観音と同じ道すじにあることを確認した。
- 名古屋市南区の紹介ページで、縄文・弥生時代は大部分が海で「あゆち潟」と呼ばれていたこと、東部の笠寺台地は古代から開けており縄文・弥生・古墳時代の遺跡も多く残ることを確認した。
- 名古屋神社ガイドで、この社の所在地が名古屋市南区呼続二丁目6であることを確認した。
- 国土地理院の標高を求めるプログラムで、所在地の代表点の標高が12.5メートル、西へおよそ400メートルの山崎川ぞい(北緯35.1113度・東経136.9265度)が0.7メートルであることを確認した。
そのため、このページではこうしています
- 座標は、所在地として公開されている呼続二丁目6番の代表点である。
- 示したのは地名の由来と土地の高低差である。「あゆち潟」の呼び名と県名との関わりについては、今回あたった名古屋市南区の各ページに記述が見あたらない。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 島の広さや、いつまで島の姿だったかを示す数値は、名古屋市の公開資料では確認できなかった。
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
参考・出典
5件出典に基づいて掲載している
- 熊野三社松巨島(くまのさんしゃまつこじま)
名古屋市南区(公式) - 東海道周辺めぐり(約5.2キロメートル)
名古屋市南区(公式) - 南区の紹介
名古屋市南区(公式) - 熊野三社(呼続)
名古屋神社ガイド - 標高を求めるプログラム(標高API)
国土地理院
この場所について
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