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粕畑貝塚跡(土取りで消えた貝塚と、二つの名前)|何があった場所か

自治体史・公的アーカイブ・碑文や現地の掲示など、一次資料で内容を確認済みの情報です。
位置精度: 町域 / 最終確認日: 2026-09-11

名古屋市南区の粕畠町(かすばたちょう)一帯に、縄文時代の貝塚があった。名古屋市南区は、縄文早期末(約7000年前)の貝塚であるとし、ハイガイが主体で、イノシシやシカの骨角のほか、石錘・石鏃・石匙などの石器が出土したと記す。中でも食物繊維を含んだ尖底の深鉢が出土し、粕畑式土器として知られている。名古屋市博物館は、東海地方の縄文時代早期の後半に、サルボウやアカガイ、ハイガイなど肋脈のある二枚貝の貝がらで土器の表面をけずる貝殻条痕文系土器が作られたとし、この貝塚をその基準となる土器群のひとつ、粕畑式土器の標式遺跡と説明する。

場所は、天白川右岸の笠寺台地の東の端にあたる。名古屋市博物館は、面積60平方メートルほどの小さな貝塚であったと記す。ハイガイは干潟にすむ貝である。いま同じ場所に立っても海は見えないが、名古屋市南区は、縄文・弥生のころこのあたりは大部分が海で、あゆち潟と呼ばれていたと記す。台地の南のへりから先に広がっていた干潟は万葉集に年魚市潟の名で詠まれ、この高まり自体も、熱田の方から松の大きな島に見えたことから松巨島と伝えられる。貝の層は、水際がどこまで来ていたかを、標高や地名とは別の言い方で残していた。

その貝塚は、もう無い。名古屋市博物館は、早くから住宅が建ち並び、土取工事によって消滅していると記す。発見は1927年で、当時の鳴海町長であった野村三郎氏による。1936年前後には吉田富夫氏・杉原荘介氏による数回の発掘調査が行われ、薄い表土の下に厚さ20から50センチの、おもにハイガイからなる貝層があり、その下に厚さ10センチほどの有機土層が部分的にみられたという。縄文土器は貝層からまとまって出土した。

名前も、ひとつではない。名古屋市博物館は、名古屋市教育委員会が発行している遺跡のリストに粕畑貝塚は載っていないと記す。貝塚の周辺からは弥生土器・土師器・須恵器なども採集されていて、いまはその分布範囲も含めて粕畠遺跡と呼んでいるためである。粕畑は発見当時の地名である南区笠寺町字粕畑に、粕畠は1952年以降の地名である南区粕畠町にもとづく。畑と畠、どちらもハタと読む一字の違いが、遺跡の名を二つに分けている。なお名古屋市南区は、ここが笠覆寺の発祥地といわれ、元観音と呼ばれていると記す。

粕畑貝塚跡(土取りで消えた貝塚と、二つの名前)の位置を示す地図
この地点の地図(地理院タイルに地点を加筆)

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