大高城跡(附 丸根砦跡・鷲津砦跡)|何があった場所か
桶狭間の戦いの前哨戦の舞台とされる城跡。織田方の丸根砦・鷲津砦が今川勢に落とされ、大高城には松平元康が兵糧を入れたと伝わる。三か所は国の史跡に指定され、城跡は公園として公開されている。
時のながれ
- 室町時代 — 花井備中守の居城であり、のちに水野氏の居城となったと国指定時の解説文は記す。
- 永禄年間(1558〜1570) — 今川義元の属城となり、鵜殿長照が守ったと国指定時の解説文は記す。
- 永禄2年(1559) — 織田信長が大高城に備え、北東約700メートルに鷲津砦、東方約800メートルに丸根砦を築いたと名古屋市の案内は記す。
- 永禄3年(1560)5月 — 大高城は今川方の支配下にあり、松平元康(徳川家康)による兵糧入れが行われたと伝わる。
- 永禄3年(1560)5月19日 — 桶狭間の戦い。丸根砦・鷲津砦はいずれも今川勢の攻撃を受けて落ち、守将らが討死したと伝わる。
- 永禄3年(1560)以後 — 今川義元の敗死ののち、大高城は廃城になったとされる。
- 昭和13年(1938)12月14日 — 「大高城跡 附 丸根砦跡 鷲津砦跡」として国の史跡に指定された。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 文化庁の文化遺産オンラインで、指定名称が「大高城跡 附 丸根砦跡 鷲津砦跡」であること、昭和13年12月14日に史跡へ指定されたこと、管理団体が名古屋市であることを確認した。
- 名古屋市公式ウェブサイトで、所在地が名古屋市緑区大高町であること、丸根砦跡・鷲津砦跡とともに国の史跡に指定されていること、現在は大高城跡公園として公開され、堀や土橋などの痕跡が見られることを確認した。
- 愛知県のあいち歴史観光で、所在地が名古屋市緑区大高町字城山であることを確認した。
- 名古屋市の緑区史跡散策路の案内で、両砦が永禄2年(1559)に織田信長によって築かれ、鷲津砦が大高城の北東700メートル、丸根砦が大高城の東方800メートルに位置すると記されていることを確認した。
そのため、このページではこうしています
- 座標は大高城跡公園の本丸跡付近を指す代表点である。国の史跡は大高城跡・丸根砦跡・鷲津砦跡の三か所にまたがるため、一点では城跡本体の位置しか示せない。
- この座標は、地図データに登録された丸根砦跡の位置から西へ約830メートルにあたり、丸根砦は大高城の東方800メートルという名古屋市の案内の記述とおおむね一致する。
- 大高城跡公園は名古屋市が管理する公園として公開されている。周囲および両砦跡の周辺は住宅地であるため、園路と公道から離れないようにしたい。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 丸根砦と鷲津砦の攻守について資料が食い違っている。名古屋市と愛知県の案内はいずれも、丸根砦を佐久間盛重が守って松平元康(徳川家康)の軍と戦い、鷲津砦は朝比奈泰能に攻められたとする。一方、昭和13年の国指定時の解説文は、丸根砦を朝比奈泰能が、鷲津砦を松平元康らが攻め落としたと記しており、両者が逆になっている。
- 鷲津砦の守将についても、名古屋市の案内は飯尾定宗を挙げ、愛知県の案内は織田秀俊らを挙げており一致しない。
- 桶狭間の戦いの主戦場の位置には定説がなく、名古屋市緑区と豊明市に別々の伝承地がある。豊明市観光協会は、今川義元の本陣の場所は諸説あると記している。
参考・出典
- 大高城跡 附 丸根砦跡 鷲津砦跡
文化庁 文化遺産オンライン - 大高城跡
名古屋市教育委員会 - 大高城跡
名古屋市 - 緑区史跡散策路・緑地・砦コースの紹介
名古屋市緑区 - 大高城跡 - あいち歴史観光
愛知県 - 丸根砦・鷲津砦 - あいち歴史観光
愛知県 - 桶狭間古戦場伝説地
豊明市観光協会 - 桶狭間古戦場伝説地 附 戦人塚
文化庁 文化遺産オンライン
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
近くの痕跡
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