大高城跡(附 丸根砦跡・鷲津砦跡)|何があった場所か
大高城跡は名古屋市緑区大高町字城山にある城跡で、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いのとき、松平元康(のちの徳川家康)が兵糧入れを行った城として知られる。いまは大高城跡公園として公開され、園内で堀や土橋などの跡を見ることができる。
桶狭間の戦いの前哨戦の舞台とされる城跡。織田方の丸根砦・鷲津砦が今川勢に落とされ、大高城には松平元康が兵糧を入れたと伝わる。三か所は国の史跡に指定され、城跡は公園として公開されている。

近くの痕跡
- 東の常夜灯(鳴海宿の入口を示した文化三年の石灯籠)(地の痕跡・約2.1km)
- 鳴海城跡(天神社の高台と鳴海城跡公園)(戦の痕跡・約2.3km)
- 雷貝塚(土器に名を残した、鳴海の貝塚の先駆け)(地の痕跡・約2.6km)
- 善照寺砦跡(砦公園と、南東に開ける眺め)(戦の痕跡・約2.7km)
時のながれ
- 室町時代 — 花井備中守の居城であり、のちに水野氏の居城となったと国指定時の解説文は記す。
- 永禄年間(1558〜1570) — 今川義元の属城となり、鵜殿長照が守ったと国指定時の解説文は記す。
- 永禄2年(1559) — 織田信長が大高城に備え、北東約700メートルに鷲津砦、東方約800メートルに丸根砦を築いたと名古屋市の案内は記す。
- 永禄3年(1560)5月 — 大高城は今川方の支配下にあり、松平元康(徳川家康)による兵糧入れが行われたと伝わる。
- 永禄3年(1560)5月19日 — 桶狭間の戦い。丸根砦・鷲津砦はいずれも今川勢の攻撃を受けて落ちたと伝わる。鷲津砦では守将の飯尾定宗ら大半の兵が討死したと名古屋市の案内は記す。
- 永禄3年(1560)以後 — 今川義元の敗死ののち、大高城は廃城になったとされる。
- 昭和13年(1938)12月14日 — 「大高城跡 附 丸根砦跡 鷲津砦跡」として国の史跡に指定された。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 文化庁の文化遺産オンラインで、指定名称が「大高城跡 附 丸根砦跡 鷲津砦跡」であること、昭和13年12月14日に史跡へ指定されたこと、管理団体が名古屋市であることを確認した。
- 名古屋市公式ウェブサイトで、所在地が名古屋市緑区大高町であること、丸根砦跡・鷲津砦跡とともに国の史跡に指定されていること、現在は大高城跡公園として公開され、堀や土橋などの痕跡が見られることを確認した。
- 愛知県のあいち歴史観光で、所在地が名古屋市緑区大高町字城山であることを確認した。
- 名古屋市の緑区史跡散策路の案内で、両砦が永禄2年(1559)に織田信長によって築かれ、鷲津砦が大高城の北東700メートル、丸根砦が大高城の東方800メートルに位置すると記されていることを確認した。
そのため、このページではこうしています
- 座標は大高城跡公園の本丸跡付近を指す代表点である。国の史跡は大高城跡・丸根砦跡・鷲津砦跡の三か所にまたがるため、一点では城跡本体の位置しか示せない。
- この座標は、地図データに登録された丸根砦跡の位置から西へ約830メートルにあたり、丸根砦は大高城の東方800メートルという名古屋市の案内の記述とおおむね一致する。
- 大高城跡公園は名古屋市が管理する公園として公開されている。周囲および両砦跡の周辺は住宅地であるため、園路と公道から離れないようにしたい。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 丸根砦と鷲津砦の攻守について資料が食い違っている。名古屋市と愛知県の案内はいずれも、丸根砦を佐久間盛重が守って松平元康(徳川家康)の軍と戦ったとし、愛知県の案内はさらに鷲津砦が朝比奈泰能に落とされたとする。一方、昭和13年の国指定時の解説文は、丸根砦を朝比奈泰能が、鷲津砦を松平元康らが攻め落としたと記しており、両者が逆になっている。
- 鷲津砦の守将についても、名古屋市の案内は飯尾定宗を挙げ、愛知県の案内は織田秀俊らを挙げており一致しない。
- 桶狭間の戦いの主戦場の位置には定説がなく、名古屋市緑区と豊明市に別々の伝承地がある。豊明市観光協会は、今川義元の本陣の場所は諸説あると記している。
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
参考・出典
8件出典に基づいて掲載している
- 大高城跡 附 丸根砦跡 鷲津砦跡
文化庁 文化遺産オンライン - 大高城跡
名古屋市教育委員会 - 大高城跡
名古屋市 - 緑区史跡散策路・緑地・砦コースの紹介
名古屋市緑区 - 大高城跡 - あいち歴史観光
愛知県 - 丸根砦・鷲津砦 - あいち歴史観光
愛知県 - 桶狭間古戦場伝説地
豊明市観光協会 - 桶狭間古戦場伝説地 附 戦人塚
文化庁 文化遺産オンライン
訂正履歴
公開後に内容を改めた箇所を、日付とともに記録している。
- :要約の冒頭に、所在地と現状の要約を足した。何があった場所で、いまどこでどうなっているかが、これまでの要約の先頭からは分からなかったため。まだ分かっていないことの、鷲津砦を朝比奈泰能が攻めたとする記述は、名古屋市の案内が攻め手の名を挙げていないため、愛知県の案内の記述と改めた。時のながれの「守将らが討死した」も、討死を記すのは鷲津砦の飯尾定宗らについてだけなので、そのとおりに分けた。
この場所について
この場所について、いま知っていることを教えてください。