雷貝塚(土器に名を残した、鳴海の貝塚の先駆け)|何があった場所か
名古屋市緑区の鳴海小学校の北のあたりで、昭和のはじめに貝塚が見つかっている。名古屋市緑区は、昭和2年(1927年)鳴海小学校北辺りで、野村三郎氏、鈴村秋一氏が発見した縄文晩期から弥生期に至る複合遺跡であると記す。区の説明によれば、この地方では最初に屈葬人骨、獣骨、魚骨、貝類、石器、土器、須恵器、中世陶器などが出土し、当時の生活様式などがうかがえ、考古学研究上重要な発見があった。
出土した土器には、この場所の名をとって雷式という形式名が与えられた。区は、鳴海の貝塚遺跡の先駆となったと記す。同じ昭和2年には、南区の粕畑貝塚も野村三郎氏の名で発見が記録されており、鳴海のまわりで貝塚が次々に確かめられていく起点にあたる年であった。区の記念誌『緑区誌』によれば、鳴海小学校にも遺跡の一部、貝層や住居跡が残っており、壊さないように土盛をして「矢切の丘」として保存されている。区の資料は所在を鳴海小学校の北あたりとだけ書き、番地までは示していない。

近くの痕跡
- 鳴海球場跡(教習所の敷地に残るスタンド)(地の痕跡・約236m)
- 鳴海城跡(天神社の高台と鳴海城跡公園)(戦の痕跡・約255m)
- 善照寺砦跡(砦公園と、南東に開ける眺め)(戦の痕跡・約375m)
- 東の常夜灯(鳴海宿の入口を示した文化三年の石灯籠)(地の痕跡・約1.0km)
時のながれ
- 縄文時代の終わりごろ — 区の資料は、この遺跡を縄文晩期から弥生期に至る複合遺跡と記す。貝や獣や魚の骨が積み重なった。
- 昭和2年(1927年) — 鳴海小学校の北あたりで、野村三郎氏と鈴村秋一氏が貝塚を発見する。同じ年、南区の粕畑貝塚も野村三郎氏の名で記録される。
- 発見ののち — 出土した土器に雷式の形式名が与えられる。区は、鳴海の貝塚遺跡の先駆となったと記す。
- 昭和58年(1983年) — 区の記念誌『緑区誌』の略年表は、この年に鳴海小学校の縄文住居跡に「矢切の丘」が完成したとする。
- 現在 — 区の記念誌『緑区誌』は、鳴海小学校にも遺跡の一部、貝層や住居跡が残っており、壊さないように土盛をして「矢切の丘」として保存されていると記す。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 名古屋市緑区の鳴海周辺のみどころ一覧は、雷貝塚を、昭和2年(1927年)鳴海小学校北辺りで野村三郎氏、鈴村秋一氏が発見した縄文晩期から弥生期に至る複合遺跡と記す。
- 同じ一覧は、この地方では最初に屈葬人骨、獣骨、魚骨、貝類、石器、土器、須恵器、中世陶器などが出土し、当時の生活様式などがうかがえ、考古学研究上重要な発見があったと記す。
- 同じ一覧は、特に土器は雷式と形式名が与えられ、鳴海の貝塚遺跡の先駆となったと記す。
- 名古屋市が公開する市指定文化財の一覧(令和7年8月12日現在)に、この貝塚の名は見あたらない。
- 同じ発見者の名は、当サイトにすでに収録している南区の粕畑貝塚の記録にも、昭和2年の発見者として現れる。
- 名古屋市緑区の緑区制50周年記念誌『緑区誌』は、雷貝塚の発見場所は矢切だが、旧字名をとって命名されたと記す。
- 同じ記念誌は、鳴海小学校にも遺跡の一部、貝層や住居跡が残っており、壊さないように土盛をして「矢切の丘」として保存されていると記す。略年表は、昭和58年(1983年)に鳴海小学校の縄文住居跡に「矢切の丘」が完成したとする。
- 全国遺跡報告総覧に載る名古屋市教育委員会の発掘調査の報告書は2冊ある。1981年3月の『雷貝塚・呼続遺跡・NN-328号古窯跡』(発掘調査概要報告書)の抄録は、所在地を鳴海町矢切、遺跡番号を14-91とし、1980年4月に14平方メートルを調べたこと、種別を貝塚、時代を縄文とすることを記す。
- 1996年3月の『雷貝塚 第2次発掘調査報告書』(編集は名古屋市見晴台考古資料館)の抄録は、所在地を鳴海町矢切19とし、1995年4月10日から5月2日に個人住宅の建設に伴って140平方メートルを調べたこと、時代の欄に縄文・古代・中世を挙げることを記す。
そのため、このページではこうしています
- 所在は、区の公開資料が書く鳴海小学校の北あたりに合わせ、学校の北側に点を置いた。番地までは資料が示していないため、位置はおおよそのものである。
- 時代の幅は、区の資料の書き方をそのまま示した。別の資料と食い違うところは、どちらかに寄せずに併記した。
- 貝塚は住宅と学校の広がる地区にあたる。見学は道路など公共の場所からにとどめたい。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 貝塚の正確な範囲や、番地までの所在を示した公的な資料には到達できなかった。区の説明は鳴海小学校北辺りとだけ書く。
- 出土品がいまどこに保管されているかを示す記述は、区の資料には見あたらない。
- 雷式という形式名が、どの研究者によっていつ与えられたかを示す資料には到達できなかった。
- 時代の幅の書き方が資料により異なる。区の一覧は縄文晩期から弥生期に至る複合遺跡と記す。緑区制50周年記念誌『緑区誌』の本文は市内の代表的な縄文晩期の遺跡とし、同じ記念誌の略年表は縄文後期の欄に雷矢切貝塚の名を置く。
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
参考・出典
7件出典に基づいて掲載している
- 鳴海周辺のみどころ一覧4(雷貝塚・鳴海球場跡・二位殿塚ほか)
名古屋市緑区役所 - 緑区の名所・史跡巡り一覧
名古屋市緑区役所 - 市指定文化財一覧
名古屋市 - 緑区制50周年記念誌「緑区誌」第2部第1章1(1)
名古屋市緑区役所 - 緑区制50周年記念誌「緑区誌」資料編(略年表)
名古屋市緑区役所 - 雷貝塚・呼続遺跡・NN-328号古窯跡 発掘調査概要報告書(名古屋市教育委員会、1981年)
名古屋市教育委員会 / 奈良文化財研究所 全国遺跡報告総覧 - 雷貝塚 第2次発掘調査報告書(名古屋市教育委員会、1996年)
名古屋市教育委員会 / 奈良文化財研究所 全国遺跡報告総覧
訂正履歴
公開後に内容を改めた箇所を、日付とともに記録している。
- :研究メモの食い違いの2項目を書き直した。「縄文早期末から弥生中期と記す資料」と「城・矢切の字名を挙げる遺跡の一覧資料」は出典に行き当たらなかったため削り、時代の書き方の違いは名古屋市緑区の記念誌『緑区誌』の本文と略年表に合わせて書き直した。発見場所が矢切で旧字名をとって命名されたという記念誌の記述を確認事項に足し、出典を2件足した。続けて、要約と年表の「地表でこの貝塚をたどれる場所はない」を、鳴海小学校にも遺跡の一部が「矢切の丘」として保存されているという記念誌の記述に改めた。名古屋市教育委員会の報告書2冊を出典に足し、発掘調査の記録を未確認事項から確認事項へ移した。
この場所について
この場所について、いま知っていることを教えてください。