明石藩舞子台場跡(海峡を挟み撃ちにするはずだった砲台)|何があった場所か
神戸市垂水区東舞子町、明石海峡大橋の本州側のたもとに、幕末の台場の石垣が残る。文化庁の国指定文化財等データベースは、名称を明石藩舞子台場跡、種別を史跡、指定年月日を2007年2月6日、所在地を神戸市垂水区東舞子町と記し、解説に「文献史料には舞子砲台ともみえる」と添える。同じ解説によれば、幕府は安政2年に大坂湾防衛計画を決め、明石藩は文久3年、将軍徳川家茂の巡見に先立って台場の改築を命じられ、一万両の貸し付けを受けて造営に着手した。工事は元治元年(1864)あるいは慶応元年(1865)に完了したとされ、二つの年が併記される。台場の縄張りと構造について同解説は、勝海舟の現地指導を受けたと記す。神戸市の文化財一覧も「勝麟太郎(海舟)の指導のもと」と書き、面積を4,353.96平方メートルと記載する。対岸との関係について文化庁の解説は、徳島藩が文久元年に淡路島北端へ築いた松帆台場と一対になり、明石海峡の防備を担うこととされたと記す。松帆台場も国の史跡であると淡路市は記す。ただし大砲が据えられることのないまま明治維新を迎えたと、文化庁と発掘調査報告書はそろって記す。神戸市教育委員会が2006年に刊行した『舞子砲台跡 第1〜4次発掘調査報告書』は、いま海岸の護岸をなす石垣が砲台右翼前面に当たり、最上端での現存長は最も長い区間で18.2メートルに達すると計測する。石垣の上部にはコンクリート製の欄干が載り、下部はコンクリートで厚く巻かれていると同書は記す。同書はまた、掘り出した石垣そのものは現地で埋め戻して地下に保存し、整備後の広場では砲台跡の平面形を石張舗装で示し、西端に下層の天端石を金網で画して露出展示し、解説サインを2か所に置いたと記す。神戸市文化財課を問い合わせ先とする2026年の紹介記事は、見学自由と案内する。石垣の平面がW字形に折れる稜堡式で、すべて石で積んだ台場は国内に他の例がないと神戸市は記す。神戸市の一覧は、市内の国指定の史跡6件のなかに、この台場と兵庫区の和田岬砲台を並べる。

時のながれ
- 1855年 — 幕府が大坂湾防衛計画を決め、周辺諸藩に台場築造や大砲鋳造を命じたと、文化庁の国指定文化財等データベースの解説は記す。
- 1861年 — 徳島藩が対岸の淡路島北端に松帆台場を築いたと、同解説は記す。淡路市は松帆台場を安政5年(1858)着工・文久元年までの4か年の工事と記す。
- 1862年 — 明石藩が9か所の台場を築造したと、同解説は記す。
- 1863年 — 将軍徳川家茂の巡見に先立って台場の改築を幕府から命じられ、一万両の貸し付けを受けて造営が始まったと、同解説は記す。
- 1864〜1865年 — 元治元年あるいは慶応元年に工事が完了したとされると、同解説は記す。付帯施設は構築されず、大砲も据え付けられなかった。
- 1930年 — 「史蹟舞子砲臺跡 兵庫縣」の石碑が建立されたと、神戸市教育委員会の発掘調査報告書は記す。
- 1988年以降 — 明石海峡大橋関連の事業により砲台跡の東半分が完全に埋め立てられたと、同報告書は記す。
- 2003〜2005年 — 神戸市教育委員会が第1次から第4次の発掘調査を行い、石垣が良好に残ることを確認したと、同報告書は記す。
- 2007年 — 2月6日に国の史跡に指定されたと、文化庁の国指定文化財等データベースは記す。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 文化庁の国指定文化財等データベースは、名称を明石藩舞子台場跡、ふりがなをあかしはんまいこだいばあと、種別を史跡、時代を近世、指定年月日を2007年2月6日(平成19年2月6日)、所在都道府県を兵庫県、所在地を神戸市垂水区東舞子町、指定基準を「二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡」と記載する。同データベースの面積欄は空欄である。同データベースの解説は、明石藩舞子台場跡を大坂湾防衛計画の一環として明石海峡の防備のため本州側の舞子の地に築かれた軍事施設の一つと説明し、「文献史料には舞子砲台ともみえる」と記す。あわせて、嘉永6年(1853)に3か所の台場を築いていた明石藩が文久2年(1862)に9か所の台場を築造し、翌3年に将軍徳川家茂の巡見に先立って台場の改築を幕府から命じられ、一万両の貸し付けを受けて台場を造営することになったと記す。
- 同解説は、造営が文久3年に開始され、翌元治元年(1864)あるいは慶応元年(1865)に工事が完了したとされると記し、「台場の縄張り・構造については勝海舟の現地指導を受けた」と記す。あわせて、付帯施設は構築されず実際には大砲も据え付けられずに明治維新を迎えたようであると記す。
- 同解説は、舞子台場が半星形稜堡式で花崗岩を用いた総石垣造であり、復元幅(東西両翼最大長)は約70メートル、残存する下層の石垣だけでも高さ約6メートル、築造当初の高さは約10メートルと推定されると記す。また橋本海関『明石名勝古事談』によれば前面に砲門が15基設けられ、背後に5つの石製円形門等があったという、と記す。同解説はまた、舞子台場が、徳島藩によって文久元年に対岸の淡路島北端へ築かれた松帆台場と一対になって明石海峡の防備を担うこととされたと記す。淡路市は徳島藩松帆台場跡について、区分を記念物、種別を史跡、指定年月日を平成18年(2006)7月28日および平成23年(2011)9月21日の追加指定、所在地を淡路市岩屋1825-41、工事を安政5年(1858)着工から文久元年までの4か年と記す。
- 神戸市が「旧明石藩台場跡(舞子砲台)」の見出しで公開していた解説は、所在を垂水区東舞子町、築造を江戸末期、面積を4,353.96平方メートル、指定を平成19年2月6日と記す。同市の国指定記念物(史跡)の一覧は、所有者を国・神戸市・本州四国連絡道路高速株式会社他とし、市内の国指定の史跡6件に本件と兵庫区の和田岬砲台を並べる。
- 同市の解説は、文久3年(1863)に幕府が明石藩へ一万両を貸与し「勝麟太郎(海舟)の指導のもと、急遽築造させたもの」と記し、4キロメートルの海峡を挟んだ対岸の松帆台場と協力して明石海峡を通過する外国船を挟み撃ちにする計画だったと考えられると記す。あわせて、3か年度4回に及ぶ発掘調査により現在の海岸護岸の石垣が築造当時のままのものであること、台場の石垣全体も良好な状態で埋まっていることがわかったこと、石垣の平面形がW字形となる稜堡式で、すべて石で積まれた台場が国内に他に例のないことを記す。
- 神戸市教育委員会が2006年3月に刊行した『舞子砲台跡 第1〜4次発掘調査報告書』の例言は、第1次を平成15年11月6日から11月21日・約202平方メートル、第2次を平成15年11月17日から12月26日・約36平方メートル、第3次を平成16年2月9日から3月29日・約250平方メートル、第4次を平成17年1月11日から3月15日・約500平方メートルとし、いずれも重要遺跡範囲確認調査として文化庁の補助を受け実施したと記す。
- 同報告書は、海岸護岸として現存する石垣が砲台右翼前面の石垣面A〜Eに当たり、上部にコンクリート製の欄干が載せられ、下部はコンクリートが厚く巻かれ、前面に波消しの巨石が据えられていると記す。石垣面の最上端での現存長は最長の区間で18.2メートルである。また事業主との協議の結果、石垣を破壊する基礎杭の打設を避け、砲台石垣そのものは現地で埋め戻したうえ地下遺構については埋設現状保存を図る旨の誓約書を平成15年11月28日付けで取り付けたと記す。
- 同報告書は、完成した公園広場に花崗岩の縁石と石張舗装で砲台跡の平面形のイメージが表示され、3基の黒御影石製のミニチュア大砲形のベンチが据えられ、西端には発掘調査で確認した砲台跡下層部の天端石が金網で画して露出展示され、解説サインも2か所に設置されたと記す。あわせて、昭和5年に建立された「史蹟舞子砲臺跡 兵庫縣」の石碑が当初の建立場所から移動を重ね現在は海岸護岸に沿った位置に据えられていること、昭和63年以降の明石海峡大橋関連の事業により舞子砲台跡の東半分が完全に埋め立てられたことを記す。
- 同報告書の論考編は、勝海舟が和田岬砲台の石堡塔について「我石堡塔取調の命を奉ず。乃意を門人佐藤与之助に授け、其図面及雛形を製作せしむ」と述べた『陸軍歴史』巻十二の一節を引き、佐藤与之助を海舟の門人と記す。
- 神戸市文化スポーツ局文化財課を問い合わせ先とする2026年6月の紹介記事は、所在を神戸市垂水区東舞子町4とし、見学自由と案内する。あわせて石垣が往時のまま現存し一部を見ることができること、発掘調査で発見された天端の石敷きが公開されていること、ミニチュア大砲型のベンチが設置されていることを記す。
そのため、このページではこうしています
- 石垣は海岸の護岸をなしており、私有地への立ち入りを要する場所ではない。紹介記事は見学自由と案内する。
- 掘り出された石垣の大半は保存のため埋め戻されており、地表で見られるのは護岸部分と露出展示された天端石に限られるため、その旨を書き分けた。
- 『明石名勝古事談』が伝える火災の経緯には現在では用いない表現が含まれるため、公開文からは火災の記述そのものを外した。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 面積4,353.96平方メートルの出所は神戸市の文化財一覧であり、文化庁の国指定文化財等データベースの面積欄は空欄である。指定告示の原文には到達できなかった。
- 発掘調査の回数について、神戸市は3か年度4回とし、報告書の例言は第1次から第4次までの調査期間を平成15年11月から平成17年3月までと記す。両者の年度の数え方の差を説明する記述には到達できなかった。
- 現地の露出展示・解説サイン・ベンチについては2006年の発掘調査報告書と2026年6月の紹介記事が記すが、現地での確認は行っていない。
- 報告書は昭和43年に兵庫県立舞子公園の区域変更によって舞子砲台跡の敷地が公園区域から除外され駅前広場事業地となったと記す一方、一般の紹介の多くは舞子公園にあるとする。兵庫県立舞子公園の公式サイトには台場に関する記述が見あたらない。
- 報告書は、明石藩の財政事情が規模に反映した可能性や備前石工の関与を今後の研究課題と位置づけており、これらは確定した事実として扱えない。
- 勝海舟の関与の程度について、文化庁の解説は「台場の縄張り・構造については勝海舟の現地指導を受けた」、神戸市は「勝麟太郎(海舟)の指導のもと」、発掘調査報告書の本文は「勝麟太郎(海舟)の指導に基づいて」明石藩が主に工事を施工したと記す。一方、同報告書の論考編は「勝海舟・佐藤与之助らが設計・施工指導した舞子砲台」と書き、2026年の紹介記事は「勝海舟の設計・指導のもと」と書く。指導とする資料と設計とする資料が併存する。
- 竣工の年について、文化庁の解説と発掘調査報告書はいずれも元治元年(1864)あるいは慶応元年(1865)の二説を併記する。
- 上部が失われた経緯について、発掘調査報告書は橋本海関『明石名勝古事談』が廃藩の後に火災が起きたため下部を残して上部を撤去したと記すことを紹介する一方、同報告書は古写真の検討から上層部の撤去時期は限定できないと記す。
参考・出典
- 国指定文化財等データベース 明石藩舞子台場跡
文化庁(公式) - 明石藩舞子台場跡 - 文化遺産オンライン
文化庁(公式) - 旧明石藩台場跡(舞子砲台)(2021年保存版)
神戸市 文化スポーツ局文化財課 - 神戸市 国指定記念物(史跡)(2020年保存版)
神戸市 文化スポーツ局文化財課 - 舞子砲台跡 第1〜4次発掘調査報告書(神戸市教育委員会 2006)
奈良文化財研究所 全国遺跡報告総覧 - 徳島藩松帆台場跡
淡路市 社会教育課 - 明石藩舞子台場跡【国指定 史跡】
神戸っ子(2026年6月号)
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
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