消えた高倉山とおらが山(山、海へ行く)|何があった場所か
神戸市須磨区の高倉台には、かつて標高291メートルの高倉山があった。神戸市須磨区は、六甲山系の山から土砂を採取して臨海部を埋め立て、採取した跡地を住宅団地として造成する手法を、いわゆる神戸方式の開発手法「山、海へ行く」のまちづくりと説明する。神戸市歴史公文書館は、高倉山を140メートル切り下げて4000万立方メートルの土を削り取る計画が立てられ、階段状に切り崩すベンチカット方式で掘削し、当時日本最大の幅2.1メートルの高架式ベルトコンベアーが1300メートル余の長さで敷設されたと記す。須磨区の年表は、1964年に須磨ベルトコンベヤの運転が始まり、1972年に高倉台団地の第1次宅地分譲が行われたと記す。神戸新聞は、全てを切り開く予定だったが、低くなった山から風が吹き下ろし地域の気象が変化すると地元市民らが反対し、200メートルまで削られたところで山は守られたと伝える。残された丘は、おらが守った山という思いから、おらが山と呼ばれるようになったという。
時のながれ
- 1958年(昭和33) — 多井畑の土取りが始まったと須磨区の年表は記す。
- 1964年(昭和39) — 須磨ベルトコンベヤの運転が始まったと須磨区の年表は記す。
- 1972年(昭和47) — 高倉台団地の第1次宅地分譲が行われたと須磨区の年表は記す。
- 1973年(昭和48) — 高倉台団地の入居が始まったと須磨区の年表は記す。
- 2005年(平成17) — 9月にベルトコンベヤの稼働が停止したと須磨区は記す。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 神戸市須磨区の須磨ニュータウンの歴史は、六甲山系の山から土砂を採取して臨海部を埋め立てるとともに、採取した跡地は住宅団地として造成することになったとし、これをいわゆる神戸方式の開発手法「山、海へ行く」のまちづくりと説明する。
- 同じページは、1960年に鶴甲山、1962年に渦が森で工事が始まっていたが、その土砂採取量だけでは臨海工業地帯を全て埋め立てることは不可能であったため、高尾山と高倉山からも採取することになったと記載する。
- 同じページは、高倉山から東部工区への陸上輸送は安全面からもコスト面からも不可能であるため海上輸送に着目し、ベルトコンベヤとプッシャーバージ方式を全国で初めての試みとして採用したこと、このベルトコンベヤが2005年9月に稼働を停止するまで西神ニュータウンの造成や六甲アイランドの埋め立てにも利用されたことを記載する。
- 同じページの年表は、1958年に多井畑の土取りが始まり、1964年に須磨ベルトコンベヤの運転が開始され、1972年に高倉台団地の第1次宅地分譲、1973年に高倉台団地の入居開始、1974年に須磨ベルトコンベヤの運搬土量が1億立方メートルに達したと記載する。
- 神戸市歴史公文書館は、神戸市の開発事業について、山を削って跡地を住宅地とし、その削り取った土砂で海を埋立て産業用地とするという戦略であり、後に「山、海へ行く」と呼ばれたと記載する。
- 同館のコラムは、六甲山系の西の端に位置する標高291メートルの高倉山を140メートル切り下げ、4000万立方メートルの土を削り取る計画が立てられたこと、山を階段状に切り崩すベンチカット方式で掘削が行われたことを記載する。
- 同じコラムは、当時日本最大の幅2.1メートルの高架式ベルトコンベアーが1300メートル余の長さで敷設され、その先の須磨海岸に長さ170メートル、幅9.8メートルの桟橋が設けられ、当時の日本では初めての押船方式によって海上輸送が行われたと記載する。
- 神戸新聞は2019年5月27日付の記事で、高倉台にかつて標高291メートルの高倉山があり、昭和30年代から進められた神戸市の「山、海へ行く」の宅地開発で削られてニュータウンが造られたと伝える。
- 同じ記事は、全てを切り開く予定だったが、低くなった山から風が吹き下ろし地域の気象が変化すると地元市民らが反対し、200メートルまで削られたところで山は守られたこと、おらが守った山という思いから住民らがこの山をおらが山と呼ぶようになったといわれることを伝える。
- 神戸新聞は2019年6月27日付の記事で、須磨海岸に須磨ベルトコンベヤ跡地の案内板が1基残り、古い航空写真の上に「山、海へ行く」と記されていると伝える。
- 神戸市の神戸らしい眺望景観50選は、須磨区の項におらが山を掲載する。
そのため、このページではこうしています
- 高倉台は現に人が暮らす住宅地であり、土砂の採取と団地の造成は行政上のできごととして中立に記した。
- 地図の目印は、削り残されておらが山と呼ばれる丘の高所に置いた。削り取られて平らになった側は、そこから東へ広がる高倉台の住宅地にあたる。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 実際に削り取られた高さを明記した資料は見つからなかった。計画は140メートルの切り下げ、実際は標高200メートルで残されたと各資料は記している。
- 須磨ベルトコンベヤの総延長について、資料により約14.5キロメートルと14.7キロメートルの二通りがあり、原典に到達できなかったため数値は挙げていない。
- 高倉山のもとの標高について、神戸市歴史公文書館と神戸新聞はいずれも291メートルとするが、291.5メートルとする記述もある。
参考・出典
- 須磨ニュータウンの歴史
神戸市須磨区(公式) - 神戸の高度経済成長と公共デベロッパー
神戸市歴史公文書館(公式) - ポートアイランド・六甲アイランド
神戸市歴史公文書館(公式) - 山が歩んだ海への道 須磨ベルトコンベヤ跡地をたどる(2019年6月27日)
神戸新聞社 - 天国に続く階段、馬の背越え絶景へ 須磨アルプス踏破に挑戦(2019年5月27日)
神戸新聞社 - 神戸らしい眺望景観50選・10選
神戸市(公式)
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
近くの痕跡
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