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戦 戦の痕跡 資料確認済み

兵庫大仏と金属供出の痕跡(能福寺)|何があった場所か

位置精度: 地点特定 / 最終確認日: 2026-08-30

神戸市兵庫区の能福寺の境内に、大きな坐像の大仏が据えられている。能福寺は、延暦24年(805年)に唐から帰国した最澄が大輪田泊(現在の兵庫港)に上陸したことを寺の始まりとすると記す。ただし、いま見える大仏は初代ではない。能福寺は、明治24年(1891年)5月に兵庫の豪商である南条荘兵衛の発願により、身丈三丈八尺、重量三千貫の青銅の毘盧舎那仏が建立されたと記す(尺貫法を換算するとおよそ11.5メートル、およそ11トンにあたる)。一方、長崎大学附属図書館の幕末・明治期日本古写真データベースは、日下部金兵衛が撮影した手彩色写真の解説として、南条荘兵衛が明治22年(1889年)に境内へ建立し、明治24年に開眼供養が行われたと記す。造立の年は資料により割れている。この初代の大仏は、いまは無い。能福寺は、第二次世界大戦のさなかの昭和19年(1944年)5月に金属回収令によって解体されたと記す。国立国会図書館の日本法令索引によれば、正式な法令名は金属類回収令で、昭和16年8月30日に勅令第835号として公布され、昭和18年8月12日の勅令第667号で全部改正されている。翌昭和20年3月の空襲では、境内の建造物が鐘楼を除いて全焼したと能福寺は記す。いまの大仏は平成3年(1991年)の再建である。能福寺は、戦後に解体された大仏を見つけた当時の住職がその金属片を回収して保管しており、再建の際にそれを混ぜることで旧大仏と現大仏を一体のものとしたと記す。さらに、新しい大仏の開眼法要が旧大仏の開眼の日からちょうど100年と1日後の平成3年5月9日にあたったと述べる。消えた初代は、素材として現在の像の内側に残っていることになる。痕跡はもう一つある。神戸市は、川西英が昭和8年(1933年)11月に制作した木版画の神戸百景の第1景が能福寺大仏であるとし、川西が描いた初代大仏は太平洋戦争時に供出され、2代目にあたる現在の大仏は1991年の建立であると記す。明治期の写真と昭和初期の版画が、失われた像の姿を伝えている。日本三大仏という呼び名については、資料の書き方が分かれる。能福寺と神戸観光局はいずれも兵庫大仏を日本三大仏の一つに数えると記すが、奈良と鎌倉に続く三尊目には諸説があり、高岡大仏や岐阜大仏の名も挙がる。現在の像について、神戸観光局は蓮台と台座を含めて高さ18メートルの坐像と記し、新西国霊場会は身丈11メートルと記す。境内には平清盛の廟とされる平相国廟や、伊藤博文の揮毫による北風正造君碑、日本最初の英文碑といわれるジョセフ・ヒコの碑も立つ。能福寺は寺務所の時間を午前10時から午後4時までと案内しており、誰でも参拝できる。

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