兵庫大仏と金属供出の痕跡(能福寺)|何があった場所か
神戸市兵庫区の能福寺の境内に、大きな坐像の大仏が据えられている。能福寺は、延暦24年(805年)に唐から帰国した最澄が大輪田泊(現在の兵庫港)に上陸したことを寺の始まりとすると記す。ただし、いま見える大仏は初代ではない。能福寺は、明治24年(1891年)5月に兵庫の豪商である南条荘兵衛の発願により、身丈三丈八尺、重量三千貫の青銅の毘盧舎那仏が建立されたと記す(尺貫法を換算するとおよそ11.5メートル、およそ11トンにあたる)。一方、長崎大学附属図書館の幕末・明治期日本古写真データベースは、日下部金兵衛が撮影した手彩色写真の解説として、南条荘兵衛が明治22年(1889年)に境内へ建立し、明治24年に開眼供養が行われたと記す。造立の年は資料により割れている。この初代の大仏は、いまは無い。能福寺は、第二次世界大戦のさなかの昭和19年(1944年)5月に金属回収令によって解体されたと記す。国立国会図書館の日本法令索引によれば、正式な法令名は金属類回収令で、昭和16年8月30日に勅令第835号として公布され、昭和18年8月12日の勅令第667号で全部改正されている。翌昭和20年3月の空襲では、境内の建造物が鐘楼を除いて全焼したと能福寺は記す。いまの大仏は平成3年(1991年)の再建である。能福寺は、戦後に解体された大仏を見つけた当時の住職がその金属片を回収して保管しており、再建の際にそれを混ぜることで旧大仏と現大仏を一体のものとしたと記す。さらに、新しい大仏の開眼法要が旧大仏の開眼の日からちょうど100年と1日後の平成3年5月9日にあたったと述べる。消えた初代は、素材として現在の像の内側に残っていることになる。痕跡はもう一つある。神戸市は、川西英が昭和8年(1933年)11月に制作した木版画の神戸百景の第1景が能福寺大仏であるとし、川西が描いた初代大仏は太平洋戦争時に供出され、2代目にあたる現在の大仏は1991年の建立であると記す。明治期の写真と昭和初期の版画が、失われた像の姿を伝えている。日本三大仏という呼び名については、資料の書き方が分かれる。能福寺と神戸観光局はいずれも兵庫大仏を日本三大仏の一つに数えると記すが、奈良と鎌倉に続く三尊目には諸説があり、高岡大仏や岐阜大仏の名も挙がる。現在の像について、神戸観光局は蓮台と台座を含めて高さ18メートルの坐像と記し、新西国霊場会は身丈11メートルと記す。境内には平清盛の廟とされる平相国廟や、伊藤博文の揮毫による北風正造君碑、日本最初の英文碑といわれるジョセフ・ヒコの碑も立つ。能福寺は寺務所の時間を午前10時から午後4時までと案内しており、誰でも参拝できる。
時のながれ
- 延暦24年(805) — 能福寺は、最澄が大輪田泊に上陸し、堂宇に自作の薬師如来像を安置して能福護国密寺と名づけたのが寺の始まりであると記す。
- 明治22年(1889) — 長崎大学附属図書館の古写真データベースは、南条荘兵衛が同年に能福寺境内へ大仏を建立したと解説する。
- 明治24年(1891) — 能福寺は同年5月に初代大仏が建立されたと記し、長崎大学附属図書館の古写真データベースは同年に開眼供養が行われたと記す。
- 昭和8年(1933) — 神戸市は、川西英が木版画の神戸百景の第1景として能福寺大仏を同年11月に制作したと記す。
- 昭和16年(1941) — 国立国会図書館の日本法令索引は、金属類回収令が同年8月30日に勅令第835号として公布されたと記録する。
- 昭和19年(1944) — 能福寺は、同年5月に金属回収令により初代大仏が解体され国に供出されたと記す。
- 昭和20年(1945) — 能福寺は、3月の空襲により境内の建造物が鐘楼を除いて全焼したと記す。
- 平成3年(1991) — 能福寺は、同年5月9日に旧大仏の金属片を混ぜて大仏を再建し、開眼法要を行ったと記す。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 能福寺の公式サイトの歴史のページは、明治24年5月に兵庫の豪商である南条荘兵衛が第19世住職慈晃と謀って身丈三丈八尺、重量三千貫の青銅の毘盧舎那仏を建立し、昭和19年5月に金属回収令により供出を余儀なくされたと記す。
- 能福寺の公式サイトの文化財のページは、戦後に解体された大仏を発見した当時の住職が金属片を回収保管して平成3年の再建時に混入したこと、および現在の大仏の開眼法要が旧大仏の開眼日から100年と1日後の平成3年5月9日であったことを記す。
- 神戸市の公式サイトにある木版画版の神戸百景のページは、第1景が能福寺大仏で制作が1933年11月であるとし、川西画に描かれた初代大仏は太平洋戦争時に供出され、2代目にあたる現在の大仏は1991年の建立であると記す。
- 長崎大学附属図書館の幕末・明治期日本古写真データベースの目録番号1044は、日下部金兵衛が撮影した手彩色写真として、南条荘兵衛が明治22年に能福寺境内へ建立し明治24年に開眼供養が行われたと解説する。
- 国立国会図書館の日本法令索引は、金属類回収令が昭和16年8月30日に勅令第835号として公布され、昭和18年8月12日の勅令第667号で全部改正されたと記録する。
- 一般財団法人神戸観光局のFeel KOBEは、境内に日本三大仏に数えられる兵庫大佛があり現在の像は平成3年の再建で蓮台と台座を含めて高さ18メートルであるとし、所在地を神戸市兵庫区北逆瀬川町1-39と記す。
- 能福寺の公式サイトの拝観時間と交通のページは、寺務所である納経所の時間を午前10時から午後4時までとし、大仏台座内のビルシャナ殿は永代供養をしている人のみ拝観できると記す。
- 能福寺の公式サイトは、境内に平相国廟、伊藤博文の揮毫で明治29年に兵庫県知事周布公平が建立した北風正造君碑、日本最初の英文碑といわれるジョセフ・ヒコの碑があると記す。
そのため、このページではこうしています
- 造立の年は明治24年説を主としつつ、明治22年説も並べて記した。どちらかを退けることはしていない。
- 法令名は能福寺の表記と正式名称を書き分け、公布と全部改正の年月日を国立国会図書館の記録で補った。
- 日本三大仏については資料がそう称していると書く形をとり、三尊目が確定しているとはしなかった。
- 現在の像の重量は資料の裏づけが弱いため、高さのみ出典のある数字を記した。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 現在の大仏の重量を約60トンとする数字は、ウィキペディア日本語版と一部の記事に見えるだけで、能福寺や神戸市の資料では確認できなかった。
- 供出が金属類回収令のどの条文にもとづきどのような手続で行われたかを示す当時の資料には到達できなかった。
- 初代の三千貫という重量と現在の像の約60トンという数字の差が何に由来するのか、台座を含むか否かも含めて確認できなかった。
- ウィキペディアが典拠に挙げる新修神戸市史の歴史編第4巻の40から41ページは、書籍そのものを確認できなかった。
- 造立の年について、能福寺と新西国霊場会は明治24年の建立とするのに対し、長崎大学附属図書館の古写真データベースは明治22年の建立で明治24年に開眼供養としており、資料が割れている。
- 法令名について、能福寺は金属回収令と記すのに対し、国立国会図書館の日本法令索引が示す正式名称は金属類回収令である。
- 神戸観光局は供出により台座だけが残されたと記すが、能福寺の資料には台座が残ったという記述が見当たらない。
- 日本三大仏の三尊目について、能福寺と神戸観光局は兵庫大仏を数えるが、日本三大仏を扱う事典項目は固定した説がなく高岡大仏や岐阜大仏も挙がるとする。
参考・出典
- 歴史
能福寺 - 文化財 兵庫大佛
能福寺 - 拝観時間・交通
能福寺 - 木版画版 神戸百景 川西英 1.能福寺大仏
神戸市 - 神戸百景 川西 英 プロフィール
神戸市 - 兵庫大佛 能福寺
一般財団法人神戸観光局(Feel KOBE 神戸公式観光サイト) - 幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号1044 兵庫の大仏(2)
長崎大学附属図書館 - 金属類回収令 昭和16年8月30日勅令第835号
国立国会図書館 日本法令索引 - 宝積山 能福寺
新西国霊場会 - 能福寺
ウィキペディア日本語版 - 日本三大仏
ウィキペディア日本語版 - 神戸・能福寺の兵庫大仏に会いに行ってきました
Kiss PRESS - 兵庫大仏で有名 神戸・能福寺 阿弥陀如来像が市の指定文化財に
ラジオ関西 ラジトピ
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
近くの痕跡
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