一ノ谷合戦の古戦場と戦の濱碑(鵯越の逆落としはどこか)|何があった場所か
1184年(元暦元年・寿永3年)2月7日の一ノ谷合戦の激戦地と伝わる海辺で、須磨浦公園の東部に源平史蹟「戦の濱」の碑が立つ。神戸市公園緑化協会は同公園を有名な源平の古戦場と記す。ただし『平家物語』が描く鵯越の逆落としがどこで行われたのかは、今も定まっていない。兵庫県立歴史博物館は、実際の鵯越が神戸市兵庫区と長田区の境を通る山道の名であり、須磨区の一の谷とは7から8キロ離れていて、とても一の谷のうしろとは言えないと記したうえで、主な説を5つ挙げ、現在でも決着がついていないとする。神戸市の源平特集は鉢伏山・鉄拐山から義経が行ったと結び、兵庫県立歴史博物館は鵯越からの攻撃が決め手と考えるのが自然ではないかと述べる。同時代の史料である『玉葉』は、山手を落としたのは多田行綱であったと記す。確かなのは、二つの地名が8キロ離れて残っていることである。
時のながれ
- 1184年(寿永3年)2月4日 — 九条兼実の日記『玉葉』は、平氏が安徳天皇を奉じて福原に着いたこと、その軍勢は数万で、対する源氏は手を分けたため一方が一、二千騎にすぎないという伝聞を記す。
- 1184年(寿永3年)2月5日 — 『吾妻鏡』は、源氏が7日の卯の刻を戦闘開始の時刻と定めたこと、義経軍が三草山で平資盛らを夜襲して潰走させたことを記すと、神戸市の源平特集は伝える。
- 1184年(元暦元年・寿永3年)2月7日 — 一ノ谷合戦。『玉葉』は、義経が一谷を落とし、範頼が浜地から福原に寄せ、多田行綱が山方から最前に山手を落としたと記し、戦いは辰の刻から巳の刻まで、一時も経たないうちに終わったと伝える。『吾妻鏡』は義経が勇士70余騎を率いて一谷の後山に着いたとし、そこに鵯越と号すと注する。
- 1930年(昭和5年) — 須磨のこの一帯が一ノ谷町と命名されたという、と神戸市の源平特集に寄せられた文章は記す。同じ文章は、一ノ谷合戦という名称じたい通称であり、一ノ谷だけで戦闘が行われたわけではないと注意を促している。
- 1935年(昭和10年) — 8月に須磨浦公園が開設される。神戸市公園緑化協会は、鉄拐山・鉢伏山地の御料林約80ヘクタールなどの払い下げを受けて公園としたこと、面積を103.8ヘクタールと記す。
- 1954年(昭和29年) — 神戸市が鵯越墓園南門を出たところに史跡鵯越碑の石柱を建てたと兵庫県教育委員会の調査票は記す。
- 2021年度(令和3年度) — 一の谷町2丁目の安徳帝内裏跡伝説地が神戸歴史遺産に認定されたと神戸市須磨区は記す。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 神戸市の源平特集に収められた一ノ谷合戦の文章は、1184年(元暦元年・寿永3年)2月7日、現在の神戸市域の広い範囲で源範頼・義経の率いる源氏が平氏を打ち破ったと記す。同じ文章は、一ノ谷合戦という名称は通称であり、一ノ谷だけで戦闘が行われたわけではないと注記する。
- 兵庫県立歴史博物館は、同時代の史料である九条兼実の日記『玉葉』に、戦いが午前8時ごろから10時ごろまでの2時間ほどで終わったと記されていること、山手を攻撃したのは多田行綱という人物であったと記されていることを伝える。
- 同じ兵庫県立歴史博物館は、実際の地名としての鵯越が神戸市兵庫区と長田区の境界を通る山道の名称であり、須磨区にある一の谷とは7から8キロほど離れていて、とても一の谷のうしろと表現できるようなところではないと記す。
- 兵庫県教育委員会の調査票は、神戸市が1954年に鵯越墓園南門を出たところへ史跡鵯越碑の石柱を建てたこと、『平家物語』が直線距離でも7キロ以上離れている一の谷と鵯越を間近にあるように描いたため、坂落としの場所が長らく論争されてきたことを記す。
- 神戸市は、市立鵯越墓園の案内で、鵯越とは摂津の国から藍那を経て播磨の国の三木方面へ出る古道の呼び名であると説明し、南門付近の市道夢野白川線の植え込みに史跡 鵯越の碑が建っていること、園内の高尾地蔵院境内に義経 馬つなぎの松跡と案内板があることを記す。
- 神戸市公園緑化協会は、須磨浦公園を、淡路島を望む鉄拐山・鉢伏山を含む傾斜地と海岸沿いの松原から形成された景勝地で、有名な源平の古戦場と説明し、開設を1935年8月、面積を103.8ヘクタールと記す。同協会の園内マップは、公園東部のみどりの塔の東隣に源平史蹟 戦の濱を記載している。
- 神戸市須磨区は、区内の史跡として、須磨浦公園の三の谷の西の国道2号線沿いに立つ敦盛塚と、二の谷の坂をのぼった高台にある安徳帝内裏跡伝説地を挙げ、後者が2021年度に神戸歴史遺産へ認定されたと記す。
そのため、このページではこうしています
- 地図の位置は、神戸市公園緑化協会の園内マップに載る源平史蹟 戦の濱の碑に置いた。碑のある須磨浦公園は入園料のいらない市の公園で、山陽電鉄の須磨浦公園駅からも歩ける。もう一方の候補地である鵯越は、ここから東へおよそ7から8キロ、神戸市兵庫区から北区にかけての一帯にあたる。
- 須磨側を地図の位置に選んだのは、公園として整備され、碑と解説板があり、読者が実際に立てる場所だからである。鵯越側にも神戸市が建てた史跡 鵯越の碑があるが、そちらは墓園の中にあたるため、訪ねる際は墓参の方への配慮が要る。
- 緯度経度は地図サービスが返した値をもとに、園内マップにおける碑の位置、および公園の範囲と鉄道線の実測位置と照らして選んだ。碑は山陽電鉄の線路と国道2号にはさまれた緑地の中にあたる。
- 逆落としについては、あったかどうか、どこであったか、誰が行ったかの3つがいずれも資料の間で定まっていない。確かなのは、一の谷と鵯越という二つの地名が8キロ離れて残っていることである。
- 山上の逆落としの地とされる斜面は急で、周囲は山道である。整備された園路とハイキングコースを歩き、柵の外や斜面へは立ち入らないでいただきたい。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 戦の濱の碑がいつ誰によって建てられたのかを示す公的な資料は確認できなかった。碑が公園東部にあることは神戸市公園緑化協会の園内マップで確認できるが、建立の年と主体はわからない。
- 碑のそばに立つ解説板の文面は、現地を訪ねた個人の記録として翻刻されたものしか見あたらず、公的な資料では確認できなかった。その記録によれば、解説板は一の谷を鉄拐山と高倉山との間から流れ出た渓流にそう地域とし、公園の東の境界にあたるとしているという。
- そもそも逆落としが実際にあったかどうかについても見解が分かれている。神戸市の源平特集の文章は、坂落としが同時代の史料である『玉葉』には記されていないことを認めたうえで、騎馬で断崖を降りることは充分に可能だと論じる。一方で、坂落としを『平家物語』の創作とみなす見方も紹介されている。
- 平氏の陣がどこからどこまで置かれていたのかを、いまの地図の上に線として引ける一次資料は確認できなかった。
- 逆落としの場所そのものが定まっていない。兵庫県立歴史博物館は主な説として、義経が三木方面から鵯越の道を進んで六甲山中で進路を変え一の谷から攻撃したとするもの、山手は鵯越で多田行綱が攻撃したとするもの、鵯越だが義経が攻撃したとするもの、山手は一の谷背後の鉢伏山・鉄拐山で攻撃も義経であるとするもの、鵯越からは行綱・一の谷からは義経がそれぞれ別々に攻撃したとするものの5つを挙げ、現在でも決着がついていないと明記する。
- 同じ公的機関どうしでも重心が異なる。神戸市の源平特集に寄せられた文章は、『玉葉』と『吾妻鏡』を分析する限り坂落としは義経が現在の鉢伏山や鉄拐山から一ノ谷城郭に対して行ったことになると結ぶ。これに対し兵庫県立歴史博物館は、鵯越が生田森から須磨まで10キロにおよぶ平家方の中央を分断する位置にあたることなどから、勝敗の決め手となったのは鵯越からの攻撃であったと考えるのが自然ではないかと述べる。
- 攻めた将についても資料が食い違う。『平家物語』と『吾妻鏡』は義経が坂落としを行ったとするが、同時代の史料である『玉葉』は山手を落としたのは多田行綱であったと記す。神戸市の源平特集の文章は、この行綱の記事を『玉葉』の独自記事だと指摘している。
- 『平家物語』は諸本によって強調点が違う。兵庫県教育委員会の調査票は、琵琶法師が語る平曲の教本系が鵯越での坂落としを強調するのに対し、読み本系は一の谷の背面を強調していること、また江戸時代の地誌類は一の谷説が多いことを記す。
- 第三の候補地もある。神戸市は市立鵯越墓園の案内で、園内の奇勝である蛙岩について、義経が平家を攻めた鵯越から西進し坂落しの場所が、須磨の一の谷ではなくこの蛙岩だという説もあると記す。
- 合戦の年についても資料の書き方に幅がある。神戸市の源平特集は元暦元年(寿永3年、1184)と併記し、兵庫県立歴史博物館は寿永3年(1184)とする。一方、兵庫県教育委員会の調査票は一の谷の項だけを寿永2年(1183)と記しており、同じ資料の他の項および他機関の記述とずれている。ここでは1184年を採った。
参考・出典
- 源平特集 一ノ谷合戦(執筆 近藤好和)
神戸市 歴史公文書館 - ほんとうの一の谷合戦(ひょうご歴史ステーション)
兵庫県立歴史博物館 - 平清盛と源平合戦関連文化財群調査票
兵庫県教育委員会事務局 社会教育課 - 神戸市立鵯越墓園
神戸市 - 須磨浦公園
公益財団法人 神戸市公園緑化協会 - 須磨区のみどころ(史跡)
神戸市須磨区
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
近くの痕跡
- 消えた高倉山とおらが山(山、海へ行く)(地の痕跡・約1.4km)
- 清盛塚と琵琶塚(11メートル動いた十三重石塔)(地の痕跡・約6.6km)
- 兵庫運河と新川運河(和田岬の難所を避けるために掘られた運河)(水の痕跡・約6.7km)
- 兵庫大仏と金属供出の痕跡(能福寺)(戦の痕跡・約6.8km)