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戦 戦の痕跡 資料確認済み

神戸事件と永福寺跡|何があった場所か

位置精度: 町域 / 最終確認日: 2026-09-05

慶応4年1月11日、西暦の1868年2月4日にあたるこの日、新政府から西宮の警備を命じられた備前岡山藩の一隊が西国街道を東へ進み、外国人居留地の北にあたる三宮神社の前で外国人と衝突した。神戸市兵庫区の記録は、行列を横切ろうとした外国軍水兵を藩兵が刺傷したのが神戸事件であると記す。神戸税関の資料によれば、負傷した水兵が英領事館へ駆け込み、各国の軍艦から陸戦隊が上陸して備前藩を追い、公使団は旧生田川から宇治川筋までを占領下に置いて、停泊中の各藩の軍艦6隻を神戸沖で抑留した。兵庫県の資料は、占領された居留地が当時なお造成中であったことを添える。衝突した相手の国籍は資料で割れる。神戸税関は仏米の水兵と記し、岡山県立図書館が挙げる人物事典は3人のイギリス人と記す。 神戸税関は兵庫の開港を慶応3年12月7日、西暦の1868年1月1日と記す。事件はその34日後にあたる。慶応4年1月15日、勅使東久世通禧は運上所で6か国の公使と会見し、王政復古を告げる国書を伝えた。三宮神社の記録は、外交文書に国璽が用いられた最初の例であるとし、神戸税関も、天皇が諸外国に出した初めての国書の舞台がこの運上所であったと記す。会見ののち、発砲の責任者を各国士官の立会いのもとで死罪に処すことが求められた。兵庫県の資料は、伊藤博文が外国人に死者のなかったことを論拠に助命を求めたものの、受け入れられなかったと記す。 慶応4年2月9日、備前藩士の滝善三郎正信は兵庫の永福寺で切腹し、事件は落着した。神戸新聞の取材に応じた県立兵庫津ミュージアムの学芸員は、格式ある場が選ばれたのだろうと述べている。永福寺があったのは兵庫区南仲町で、この寺は戦災で焼失し、その後に移転した。境内にあった滝善三郎の供養碑は昭和44年、西暦の1969年に近くの能福寺へ移され、いまも供養が続く。事件の起きた三宮神社の境内には、神戸市が建てた石標が残る。始まりの場所と終わりの場所は、3キロほど離れている。

神戸事件と永福寺跡の位置を示す地図
この地点の地図(地理院タイルに地点を加筆)

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