神戸事件と永福寺跡|何があった場所か
慶応4年1月11日、西暦の1868年2月4日にあたるこの日、新政府から西宮の警備を命じられた備前岡山藩の一隊が西国街道を東へ進み、外国人居留地の北にあたる三宮神社の前で外国人と衝突した。神戸市兵庫区の記録は、行列を横切ろうとした外国軍水兵を藩兵が刺傷したのが神戸事件であると記す。神戸税関の資料によれば、負傷した水兵が英領事館へ駆け込み、各国の軍艦から陸戦隊が上陸して備前藩を追い、公使団は旧生田川から宇治川筋までを占領下に置いて、停泊中の各藩の軍艦6隻を神戸沖で抑留した。兵庫県の資料は、占領された居留地が当時なお造成中であったことを添える。衝突した相手の国籍は資料で割れる。神戸税関は仏米の水兵と記し、岡山県立図書館が挙げる人物事典は3人のイギリス人と記す。 神戸税関は兵庫の開港を慶応3年12月7日、西暦の1868年1月1日と記す。事件はその34日後にあたる。慶応4年1月15日、勅使東久世通禧は運上所で6か国の公使と会見し、王政復古を告げる国書を伝えた。三宮神社の記録は、外交文書に国璽が用いられた最初の例であるとし、神戸税関も、天皇が諸外国に出した初めての国書の舞台がこの運上所であったと記す。会見ののち、発砲の責任者を各国士官の立会いのもとで死罪に処すことが求められた。兵庫県の資料は、伊藤博文が外国人に死者のなかったことを論拠に助命を求めたものの、受け入れられなかったと記す。 慶応4年2月9日、備前藩士の滝善三郎正信は兵庫の永福寺で切腹し、事件は落着した。神戸新聞の取材に応じた県立兵庫津ミュージアムの学芸員は、格式ある場が選ばれたのだろうと述べている。永福寺があったのは兵庫区南仲町で、この寺は戦災で焼失し、その後に移転した。境内にあった滝善三郎の供養碑は昭和44年、西暦の1969年に近くの能福寺へ移され、いまも供養が続く。事件の起きた三宮神社の境内には、神戸市が建てた石標が残る。始まりの場所と終わりの場所は、3キロほど離れている。

時のながれ
- 1868年 — 1月1日(慶応3年12月7日)、兵庫が開港し、幕府が兵庫運上所を開いた。
- 1868年 — 2月4日(慶応4年1月11日)、西宮の警備に向かう備前岡山藩の一隊が三宮神社前で外国人と衝突し、銃撃戦になった。
- 1868年 — 外国側が居留地周辺を占領し、停泊中の各藩の軍艦6隻を神戸沖で抑留した。
- 1868年 — 2月8日(慶応4年1月15日)、勅使東久世通禧が運上所で6か国の公使と会見し、王政復古を告げる国書を伝えた。
- 1868年 — 慶応4年2月7日、備前藩が滝善三郎正信を兵庫へ護送し、外国御用掛に差し出した。
- 1868年 — 慶応4年2月9日、兵庫の永福寺で滝善三郎正信が切腹し、事件は落着した。
- 1945年 — 昭和20年の空襲により永福寺が焼失した。
- 1969年 — 昭和44年の百回忌に、永福寺にあった滝善三郎の供養碑が能福寺へ移された。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 神戸市兵庫区の記録は、慶応4年1月11日に備前藩の一隊が三宮神社付近で行列を横切ろうとした外国軍水兵を刺傷したのが神戸事件であると記す。
- 神戸税関は、事件を西暦の1868年2月4日、和暦の慶応4年1月11日の午後2時頃の出来事と記す。
- 神戸税関は、外国公使団が居留地周辺の旧生田川から宇治川筋までを占領下に置き、停泊中の各藩の軍艦6隻を神戸沖で抑留したと記す。
- 兵庫県は、外国側が大阪湾内の諸藩の艦船6隻を抑留し、造成中であった居留地を軍事的に占領したと記す。
- 三宮神社は、慶応4年1月15日に東久世通禧が神戸運上所で6か国の代表と会見し、外交上の文書に国璽が用いられた最初の例であると記す。
- 兵庫県は、伊藤博文が外国人に死者のなかったことを論拠に助命を求めたが受け入れられなかったと記す。
- 岡山県立図書館は、慶応4年2月7日に滝善三郎が差し出され、同月9日に兵庫の永福寺で伊達宗城と伊藤俊輔および外国官吏の面前で果てたとし、享年33歳と記す。
- 神戸新聞は、滝が自裁を遂げたのが兵庫区南仲町の永福寺であること、この寺が戦争で焼失したこと、碑が1969年に近くの能福寺へ移されたことを伝える。
- 能福寺は、昭和20年の空襲で永福寺が焼失し、昭和44年の百回忌に地元有志とカネテツデリカフーズによって慰霊碑が能福寺へ移されたと記す。
- 三宮神社は、境内南隅の「史蹟神戸事件発生の地」と刻んだ石標が神戸市によって建てられたと記し、境内に据えてある大砲を年代的にほぼ同時代のものと記す。
そのため、このページではこうしています
- ピンは兵庫区南仲町の代表点に置いた。神戸新聞が滝の自裁の場を兵庫区南仲町の永福寺と伝えており、寺の跡がこの町にあたるためである。番地までは確定できないため、町の代表点を用いた。
- 事件の現場である三宮神社は約2.9キロ離れており、そちらには神戸市が建てた石標と大砲がある。慰霊碑のある能福寺は約174メートル離れている。
- 開港から34日後という間隔は、神戸税関が示す開港日の1868年1月1日と、同じく神戸税関が示す事件日の1868年2月4日から数えた。
- 人の死をともなう事柄のため、経過と処分の事実を資料の語で示した。
- 日付は和暦と西暦で割れるため、資料が併記している組み合わせだけを用いた。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 三宮神社の石標がいつ建てられたかを示す資料に到達できなかった。大砲がいつ誰によって据えられたかも同じく到達できなかった。
- 永福寺が南仲町のどの番地にあったかを示す公的資料に到達できなかった。
- 神戸市兵庫区がいう永福寺の移転先を示す資料に到達できなかった。
- 事件の日付について、兵庫県の歴史資料のページは慶応4年1月1日と記し、神戸市兵庫区と神戸税関と岡山県立図書館はいずれも1月11日と記す。
- 発生時刻について、神戸税関は午後2時頃と記し、三宮神社は午後1時頃と記す。
- 衝突した相手について、神戸税関は仏米の水兵、能福寺はフランス人水兵、神戸市兵庫区は外国軍水兵と記すのに対し、岡山県立図書館が挙げる岡山県歴史人物事典は3人のイギリス人と記す。
- 永福寺のその後について、神戸市兵庫区は戦災で焼失したうえ移転したと記すが、神戸新聞と能福寺は焼失したことを伝えるのみで、移転への言及が見あたらない。
参考・出典
- 開港 運河 近代化の時代(兵庫区今昔まちかど史)
神戸市兵庫区 - 神戸三宮備前兵事件(県域の歴史)
兵庫県 - 解説「神戸港開港回想ウォーキングマップ」
神戸税関 - 神戸税関の歴史
神戸税関 - (続)神戸事件概略
三宮神社 - 神社について(三宮神社略史・大砲)
三宮神社 - てくてく神戸 兵庫津編(10)瀧善三郎碑 神戸事件の責任とり切腹
神戸新聞NEXT - 文化財(滝善三郎慰霊碑・兵庫大仏)
宝積山 能福寺 - 神戸事件の責任を取り切腹した備前藩士滝善三郎について知りたい。
国立国会図書館 レファレンス協同データベース(岡山県立図書館) - 神戸事件で亡くなった瀧善三郎のお墓がどこにあるか知りたい。
国立国会図書館 レファレンス協同データベース(岡山市立中央図書館)
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
近くの痕跡
- 兵庫大仏と金属供出の痕跡(能福寺)(戦の痕跡・約172m)
- 経が島(平清盛が大輪田泊に築いたと伝わる人工島の推定地)(地の痕跡・約233m)
- 兵庫城跡と初代兵庫県庁跡(イオンモール神戸南の地下)(地の痕跡・約252m)
- 兵庫運河と新川運河(和田岬の難所を避けるために掘られた運河)(水の痕跡・約333m)