熊野神社と福原京の方位(王城鎮護と伝わる社は、どの方角にあるのか)|何があった場所か
治承4年(1180)、平清盛は都を福原へ移した。半年ほどで終わったこの都をめぐり、周囲の社には方位や鎮護を語る伝えが残る。神戸市兵庫区役所の散策マップ『福原京』と神戸市の公式ページ、兵庫県教育委員会の調査票は、熊野神社について、福原遷都にあたり王城鎮護のため紀州の熊野権現を勧請したと伝えられると記す。兵庫県神社庁の由緒は同じ由来を皇城鎮護の語で記し、古くから東向の権現さんと呼ばれてきたこと、昭和46年(1971)に由緒に基づく東向の旧社殿の位置へ現在の社殿を建てたことを伝える。ただし、この四つの資料はいずれも王城鎮護・皇城鎮護と書くのみで、鬼門という語は見あたらない。方位そのものは座標から測れる。福原京の中心とされる雪見御所旧跡を起点にすると、熊野神社はおよそ234度、距離にしておよそ770メートルで、坤(南西)からの開きは9度ほどにあたる。鬼門にあたる艮(北東)は45度であり、そちらの方角にあるのは、遷都のときの鬼門鎮護と伝わる北野天満神社(およそ58度、約2.6キロメートル)である。同じ散策マップは、都の西寄りおよそ260度の丘に建つ夢野八幡神社について、遷都に先がけて治承元年(1177)に建てられたと伝えられるとし、清盛が福原の全域を展望できるこの場所でのろしをあげ、新都の位置を測ったと伝えられると記す。兵庫県神社庁の由緒はさらに、東西十町・南北十五町の条里を計画し、境内でのろしをあげて条里を決めたと考えられるとする。いずれも伝えられる、考えられるという形の記述であり、同時代の記録にさかのぼる裏づけには届かない。
時のながれ
- 869年(貞観11) — 広峰神社から京都へスサノオノミコトの分霊を移す途中、御輿が平野の地で一泊したのを記念して祇園神社が建てられたのが始めとされると神戸市兵庫区役所の散策マップは記す。
- 1169年(仁安4) — 清盛が太政大臣を辞した後、摂津平野のこの景勝地に移り住んだことは清盛自身の朝廷への上申の文にみえると同じ散策マップは記す。
- 1177年(治承元) — 夢野八幡神社は福原遷都に先がけて建てられ、福原の全域を展望できるこの場所でのろしをあげて新都の位置を測ったと伝えられると神戸市兵庫区役所の散策マップは記す。
- 1180年(治承4)6月 — 安徳天皇が福原に入り、平頼盛の山荘があった荒田八幡神社の地が行在所となったと兵庫県教育委員会の調査票は記す。
- 1180年(治承4) — 福原遷都にあたり王城鎮護のため紀州の熊野権現を勧請したと伝えられると、神戸市と兵庫県教育委員会は熊野神社について記す。
- 1180年(治承4)11月 — 都は京へ戻り、福原の都はおよそ170日で終わったと神戸市兵庫区役所の散策マップの年表は記す。
- 1971年(昭和46) — 熊野神社は由緒に基づく東向の旧社殿の位置に現在の社殿を建て、境内の整備を終えたと兵庫県神社庁は記す。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 神戸市兵庫区役所が発行した散策マップ『福原京 平家ゆかりの地を訪ねて』(平成25年3月発行・令和6年3月改訂、協力=高橋昌明、歴史資料ネットワーク、神戸市教育委員会)の原本を画像で読み、熊野神社を福原遷都にあたり王城鎮護のため紀州熊野権現を勧請したと伝えられる社として挙げること、夢野八幡神社の項に、福原の全域を展望できるこの場所でのろしをあげて新都の位置を測ったと伝えられる旨があることを確認した。
- 神戸市兵庫区の公式ページ『大輪田の泊と平清盛の時代』(最終更新2026年1月6日)の本文にも同じ趣旨の記述があることを、ページの文字列で照合した。
- 兵庫県教育委員会社会教育課の平清盛と源平合戦関連文化財群調査票で、熊野神社の勧請の目的が王城鎮護と記されていることを確認した。
- 兵庫県神社庁の熊野神社の由緒が、皇城鎮護の語を用いること、古くから東向の権現さんと呼ばれたこと、昭和46年(1971)に由緒に基づく東向の旧社殿の位置へ現社殿を建てたことを記すのを確認した。同サイトは古い文字コードのため、生のページを復号して原文を照合した。
- 兵庫県神社庁の夢野八幡神社の由緒が、東西十町・南北十五町の条里を計画し、当社の境内でのろしをあげて新都の位置を測定し条里を決めたと考えられると記すのを確認した。
- 方位角と距離は、国土地理院の住所検索で得た熊野町三丁目1番1号の座標を用い、当サイトが収める雪見御所旧跡の地点を起点として、真北を基準に時計回りで計算した。北野天満神社と夢野八幡神社についても同じ方法で計算した。
そのため、このページではこうしています
- 勧請の由来は公的な資料が伝承として載せるものとして示し、方位角は座標から計算できる事実として分けて示した。
- 鬼門の語がどの資料にも見あたらないため、鬼門の鎮めという説明は採らず、方位角が北東にならないことを数値で示した。
- 表記の揺れる王城鎮護と皇城鎮護は、どちらの資料がどう書くかを併せて示した。
- 起点には、当サイトが収める雪見御所旧跡の地点をそのまま用い、読者が同じ計算をたどれる形にした。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- のろしの伝えがどこまでさかのぼるか。『平家物語』や『山槐記』など同時代の記録に対応する記述があるかは確認できなかった。公的な資料はいずれも伝えられる、考えられるという形である。
- 熊野神社を福原京の鬼門の鎮めとする説の出所。公的な資料にも、参照した民間の資料にも、鬼門の語そのものが見あたらなかった。
- 現地の解説板の文面は、個人のページに引用されたものを読んだのみで、原物を確かめられていない。
- 熊野神社の本殿が巽(南東)を向くとする説明が検索の要約に現れたが、出所とみられるページに接続できず、原文を確かめられなかった。
- 熊野神社の勧請の目的の表記が、神戸市と兵庫県教育委員会は王城鎮護、兵庫県神社庁は皇城鎮護で揺れている。
- 熊野神社の社殿の向きについて、兵庫県神社庁は東向とするのに対し、巽向きとする説明が別に流れている。
- 厳島神社の建立の理由は、神戸市兵庫区役所の散策マップが福原遷都と大輪田泊修築の成就祈願、神戸市の公式ページが治水、兵庫県教育委員会の調査票が築島の守り神と、資料ごとに異なる。
- 雪見御所旧跡の碑のもとになった発掘の年を、神戸市は明治41年(1908)とし、兵庫県教育委員会の調査票は明治39年(1906)とする項と明治41年(1908)とする項を併せ持つ。
参考・出典
- 兵庫区歴史さんぽ道シリーズ 福原京 平家ゆかりの地を訪ねて(散策マップPDF・令和6年3月改訂)
神戸市兵庫区役所 - 兵庫区歴史さんぽ道
神戸市兵庫区 - 大輪田の泊と平清盛の時代
神戸市兵庫区 - 神社検索 熊野神社(神社コード6301063)
兵庫県神社庁 - 神社検索 夢野八幡神社(神社コード6301307)
兵庫県神社庁 - 平清盛と源平合戦関連文化財群調査票(PDF)
兵庫県教育委員会社会教育課
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
近くの痕跡
- 烏原貯水池と旧烏原村の石臼(立ヶ畑堰堤)(水の痕跡・約666m)
- 福原京跡(雪見御所旧跡)(地の痕跡・約766m)
- 旧湊川の付け替え跡(新開地・湊川公園)(水の痕跡・約972m)
- 神戸大空襲の被災地と「神戸空襲を忘れない いのちと平和の碑」(大倉山公園)(戦の痕跡・約1.3km)