葛野大堰と大堰川・渡月橋|何があった場所か
京都市の歴史資料は、葛野大堰を5世紀頃に渡来系氏族の秦氏が造ったとされる取水用の井関とし、その場所を西京区嵐山の渡月橋附近と推定する。同じ資料は、正確な位置は不明とも明記する。この附近の桂川を大堰川(大井川)と呼ぶのは、葛野大堰が築かれていたことによるという。京都市埋蔵文化財研究所の論文は、史料をより厳密に見る。葛野大堰が文献に初めて葛野川堰として現れるのは令集解の雑令が引く8世紀の古記であり、秦氏が築いたと伝えるのは11世紀初頭に成立した政事要略である。同論文は、それはあくまで伝承であって、いつ築堤したかの記載はないとし、築造年代には諸説があるとする。同論文自身は、広隆寺が造られる600年前後とみる可能性を論じる。現地に立つのは石標である。京都市の石碑資料によれば、一ノ井堰碑は西京区嵐山西一川町にあり、1980年に一之井堰並通水利組合が建てた高さ202センチの石標で、一ノ井堰の跡を示す。碑文は、秦氏が葛野大堰を築いたとされること、時期は5世紀頃と考えられること、場所はこの附近と推定されることを刻む。あわせて応永26年(1419)の桂川用水路図に、法輪寺橋のやや下流の右岸へ一ノ井という取入口が描かれることを挙げる。堰は今も働いている。国土交通省淀川河川事務所と京都府・京都市の共同資料は、昭和2年に史跡及び名勝へ指定された嵐山の説明として、渡月橋並びに大堰(一の井堰)及びその堤防(罧原堤)は著名という一節を挙げる。同資料によれば、一の井堰は昭和26年に渡月橋以南の10箇所余りの井堰を統合する目的で現在の姿へ改築され、それまでの斜め堰が直堰になった。風致に配慮して野面石が用いられている。渡月橋は昭和7年6月の出水で半分が流出し、昭和9年(1934)に鉄筋コンクリートの橋へ架け替えられた。幅員は3倍に広がり橋面も1メートル上がったが、高欄に尾州檜を用いて木橋の趣が継がれた。慶長11年(1606)には角倉了以が保津峡を開き、保津川が舟運の川となったと京都府の資料は述べる。
時のながれ
- 5世紀頃 — 京都市の歴史資料は、葛野大堰を5世紀頃に秦氏が造ったとされる取水用の井関と説明する。
- 8世紀 — 京都市埋蔵文化財研究所の論文は、令集解の雑令が引く8世紀の古記に葛野川堰の名が現れるとする。
- 承和年間(834〜848)頃 — 京都市の歴史資料は、広隆寺を復興した僧の道昌が葛野大堰を修復したと伝える。
- 11世紀初頭 — 京都市埋蔵文化財研究所の論文は、秦氏の築造を伝えるのが政事要略であり、築堤の時期の記載はないとする。
- 応永26年(1419) — 一ノ井堰碑の碑文は、桂川用水路図に法輪寺橋のやや下流の右岸へ一ノ井という取入口が描かれることを挙げる。
- 慶長11年(1606) — 京都府の資料は、保津峡開削工事により保津川が舟運の川として開かれたとする。
- 昭和2年(1927) — 国土交通省と京都府・京都市の共同資料は、嵐山がこの年に史跡及び名勝へ指定されたとする。
- 昭和7年(1932)6月 — 同資料は、出水により渡月橋の半分が流出したとする。
- 昭和9年(1934) — 同資料は、渡月橋が鉄筋コンクリートの橋へ架け替えられ、高欄に尾州檜が用いられたとする。
- 昭和26年(1951) — 同資料は、一の井堰が渡月橋以南の10箇所余りの井堰を統合する目的で斜め堰から直堰へ改築されたとする。
- 昭和55年(1980)2月 — 京都市の石碑資料は、一之井堰並通水利組合が一ノ井堰碑を建てたとする。
- 平成29年(2017) — 国土交通省の資料は、渡月橋の下流にあった6号井堰が撤去されたとする。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 京都市の歴史資料 都市史01 秦氏は、葛野大堰を5世紀頃に秦氏が造ったとされる取水用の井関とし、所在を西京区嵐山渡月橋附近、正確な位置は不明と明記する。
- 京都市いしぶみデータベースNI003は、一ノ井堰碑が西京区嵐山西一川町にあり、1980年に一之井堰並通水利組合が建てた高さ202センチの石標であることと、碑文の全文を載せる。
- 京都市埋蔵文化財研究所の論文は、葛野大堰の初出が令集解の雑令の引く8世紀の古記の葛野川堰であり、秦氏築造を伝える政事要略は11世紀初頭の成立で築堤時期の記載がないとする。
- 国土交通省淀川河川事務所と京都府・京都市の共同資料は、史跡及び名勝 嵐山の説明に、渡月橋並びに大堰(一の井堰)及びその堤防(罧原堤)は著名という一節を挙げ、指定を昭和2年とする。
- 同資料は、一の井堰が昭和26年に渡月橋以南の10箇所余りの井堰を統合する目的で斜め堰から直堰へ改築され、野面石が用いられたことを述べる。
- 同資料は、渡月橋が昭和7年6月の出水で半分流出し昭和9年に鉄筋コンクリート橋へ架け替えられ、高欄に尾州檜を用いて木橋の趣を継いだことを述べる。
- 農業土木学会誌74巻2号の記事は、一ノ井堰碑の碑文をほぼ同文で翻刻し、一の井用水が松尾大社の境内を流れることを述べる。
- 京都府商工労働観光部観光室の資料は、慶長11年(1606)に保津峡開削工事が行われ保津川が舟運河川として開かれたとする。
そのため、このページではこうしています
- 秦氏の築造と5世紀という年代は伝承の範囲として示し、公的資料で裏づく事柄と分けて並べた。
- ピンは、実在と座標が京都市の資料で確認できる一ノ井堰碑に置いた。堰や河川敷は立ち入りを勧めないため選ばなかった。
- 渡月橋の橋長や幅員など、出典が百科事典に遡る数値は採らなかった。
- 角倉了以については保津川の舟運に限って触れ、既に収録済みの運河の話題と重ならないようにした。
- 大堰川の指す区間には争いがあるため、京都市の言い方をそのまま示した。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 現在の一の井堰が古代の葛野大堰と同じ位置を継ぐことを示す公的資料は見つからなかった。京都市はむしろ正確な位置は不明とする。
- 日本書紀や古語拾遺に葛野大堰の築造が載るという記述は、確認した資料の中に見当たらなかった。
- 文化庁の国指定文化財等データベースの嵐山の頁は素のGETでエラー頁へ転送され、指定年月日と指定説明の原文を直接確認できなかった。
- 渡月橋の橋長と幅員の具体的な数値は、公的資料からは確認できなかった。
- 一ノ井堰碑が立つ地点と現在の堰の位置との関係を結び付けて説明する公的資料は確認できなかった。
- 秦氏の渡来時期と葛野大堰の築造年代は、確認した資料の範囲では確定していない。
- 築造年代について、京都市の歴史資料は5世紀頃とし、京都市埋蔵文化財研究所の論文は600年前後の可能性を論じ、諸説があるとする。
- 大堰川の指す区間について、京都市の資料は渡月橋附近の桂川を大堰川と呼ぶとし、京都府の資料は上流部を大堰川、亀岡盆地から嵐山付近までを保津川とする。
- 渡月橋の命名者について、京都府観光連盟は亀山天皇とし、大覚寺は亀山上皇とする。大覚寺はさらに嵯峨天皇の御幸橋が先行するとする。
- 渡月橋の所在地表記について、京都府観光連盟は右京区嵐山とするが、嵐山を冠する町名は西京区に属し、右京区側は嵯峨を冠する。
- 碑文の翻刻について、京都市と農業土木学会誌とで一字が異なる。
参考・出典
- 都市史01 秦氏
京都市 - NI003 一ノ井堰碑
京都市 - 嵯峨野における秦氏の到来期について 地形から見た嵯峨野の開発過程
京都市埋蔵文化財研究所 - 嵐山の史跡及び名勝としての価値 第8回桂川嵐山地区河川整備検討委員会 参考資料1
国土交通省近畿地方整備局淀川河川事務所・京都府・京都市 - 第8回検討委員会の結果を踏まえた嵐山地区の治水対策について
国土交通省近畿地方整備局淀川河川事務所・京都府・京都市 - 桂川嵐山地区河川整備における検討経緯
国土交通省近畿地方整備局淀川河川事務所 - 水利遺産探訪 葛野大堰 古代の桂川 農業土木学会誌74巻2号
農業土木学会 - 京の川巡り 第8回 保津川と角倉了以
京都府商工労働観光部観光室 - 京都市埋蔵文化財研究所発掘調査概報2004-11 史跡・名勝 嵐山
京都市埋蔵文化財研究所 - 渡月橋は嵯峨天皇の御幸橋
旧嵯峨御所 大本山 大覚寺
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
近くの痕跡
- 化野(嵯峨野の葬送地と化野念仏寺・西院の河原)(死の痕跡・約2.2km)
- 御土居跡(豊臣秀吉が京を囲んだ総延長22.5キロの土塁)(地の痕跡・約5.6km)
- 西高瀬川(文久3年開削の木材運河・千本三条の材木町)(水の痕跡・約5.9km)
- 平安宮 大極殿跡(千本丸太町・内野児童公園の大極殿遺址碑)(地の痕跡・約5.9km)