← 痕跡マップ(地図)へ
水 水の痕跡 資料確認済み

葛野大堰と大堰川・渡月橋|何があった場所か

位置精度: 地点特定 / 最終確認日: 2026-08-29

京都市の歴史資料は、葛野大堰を5世紀頃に渡来系氏族の秦氏が造ったとされる取水用の井関とし、その場所を西京区嵐山の渡月橋附近と推定する。同じ資料は、正確な位置は不明とも明記する。この附近の桂川を大堰川(大井川)と呼ぶのは、葛野大堰が築かれていたことによるという。京都市埋蔵文化財研究所の論文は、史料をより厳密に見る。葛野大堰が文献に初めて葛野川堰として現れるのは令集解の雑令が引く8世紀の古記であり、秦氏が築いたと伝えるのは11世紀初頭に成立した政事要略である。同論文は、それはあくまで伝承であって、いつ築堤したかの記載はないとし、築造年代には諸説があるとする。同論文自身は、広隆寺が造られる600年前後とみる可能性を論じる。現地に立つのは石標である。京都市の石碑資料によれば、一ノ井堰碑は西京区嵐山西一川町にあり、1980年に一之井堰並通水利組合が建てた高さ202センチの石標で、一ノ井堰の跡を示す。碑文は、秦氏が葛野大堰を築いたとされること、時期は5世紀頃と考えられること、場所はこの附近と推定されることを刻む。あわせて応永26年(1419)の桂川用水路図に、法輪寺橋のやや下流の右岸へ一ノ井という取入口が描かれることを挙げる。堰は今も働いている。国土交通省淀川河川事務所と京都府・京都市の共同資料は、昭和2年に史跡及び名勝へ指定された嵐山の説明として、渡月橋並びに大堰(一の井堰)及びその堤防(罧原堤)は著名という一節を挙げる。同資料によれば、一の井堰は昭和26年に渡月橋以南の10箇所余りの井堰を統合する目的で現在の姿へ改築され、それまでの斜め堰が直堰になった。風致に配慮して野面石が用いられている。渡月橋は昭和7年6月の出水で半分が流出し、昭和9年(1934)に鉄筋コンクリートの橋へ架け替えられた。幅員は3倍に広がり橋面も1メートル上がったが、高欄に尾州檜を用いて木橋の趣が継がれた。慶長11年(1606)には角倉了以が保津峡を開き、保津川が舟運の川となったと京都府の資料は述べる。

時のながれ

編集部の調査メモ

このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。

資料で確認できたこと

そのため、このページではこうしています

現地確認: 未実施

❓まだ分かっていないこと

この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。

ご存知のことがあれば情報をお寄せください

参考・出典

地図で見る →

近くの痕跡

京都市西京区 の痕跡一覧を見る →

あなたの住所には、どんな痕跡が眠っているでしょうか。

あなたの住所の痕跡濃度を測る →

本ページの位置情報・年代・経緯は概略です。掲載内容の確からしさは、ページ内の根拠ラベル(資料確認済み・資料候補・伝承・噂)の区分をご確認ください。 私有地への立ち入りを目的とした利用はご遠慮ください。誤りのご指摘・削除依頼は運営までご連絡ください。