上町台地・難波宮跡|何があった場所か
かつては海に囲まれた半島だった上町台地。古代にはその周囲は海や潟だった。台地上には飛鳥〜奈良時代の宮殿「難波宮」の跡が残る。

近くの痕跡
- 「玉造」地名(玉作部の居住地伝承)(地の痕跡・約679m)
- 猫間川跡(玉造稲荷神社の猫間川川浚碑)(水の痕跡・約681m)
- 真田丸出丸跡(天王寺区餌差町周辺)(戦の痕跡・約812m)
- 三光神社「真田の抜け穴」(戦の痕跡・約939m)
時のながれ
- 縄文期(約7000-6000年前) — 上町台地は東に河内湾、西に大阪湾が広がる半島だった(縄文海進期)。
- 弥生期〜古代 — 砂州が北へ延びて河内湾を締め切り河内湖となり、その後、淀川・大和川などの河川による土砂の堆積で陸地化が進んだ。上町台地周囲は段階的に陸地化した。
- 飛鳥〜奈良時代(645-784年) — 上町台地北端の法円坂周辺に前期難波宮(7世紀。大阪市の整備基本計画は孝徳朝の難波長柄豊碕宮とし、歴史の散歩道は天武朝の宮・686年焼失と記す)・後期難波宮(8世紀、聖武朝)が営まれた。
- 1964年〜 — 難波宮跡は昭和39年(1964年)に国の史跡指定を受け、以後7次にわたり追加指定(現名称「難波宮跡附法円坂遺跡」)。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 史跡の指定は大阪市の公式ページで確認した。
そのため、このページではこうしています
- 座標は難波宮跡公園・大極殿基壇の付近である。
- 上町台地そのものは南北およそ12kmに及ぶため、ピンはあくまで代表点である。
現地確認: 未実施
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
この痕跡を掘り下げた記事
参考・出典
3件出典に基づいて掲載している
- 51.難波宮(なにわのみや)跡 史跡 - 大阪市
大阪市 - 史跡難波宮跡附法円坂遺跡整備基本計画について - 大阪市
大阪市 - 9:地形からみた「上町台地」の歴史
三井住友トラスト不動産(郷土史・地理解説記事)
訂正履歴
公開後に内容を改めた箇所を、日付とともに記録している。
- :説明文の1文と時のながれの3項目を、大阪市などの出典の書き方に合わせて改めた。主な変更は、上町台地を「砂嘴」ではなく「半島」としたこと、「大阪で最も古くから陸地だった」を出典の言い方どおり「かつては海に囲まれた半島だった」としたこと、河内湾が河内湖になったのは砂州の締め切りによるとし、土砂の堆積はその後の陸地化の要因としたことだ。前期難波宮は、孝徳朝の宮とする資料と天武朝の宮とする資料を並べた。
この場所について
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