歴史の痕跡
終戦のあとに始まった戦い — 千島列島・占守島の8月18日
地図を北へ、北へとたどっていくと、千島列島の一番端に占守島(しゅむしゅとう)という島がある。カムチャツカ半島の先端まで、わずか12キロ。1875年の樺太千島交換条約から70年間、ここが日本の北の国境だった。
占守島。この痕跡マップで、いちばん北にあるピンだ。
1945年8月15日の玉音放送のあと、この島で戦闘が始まった。
8月15日、武装解除の準備をしていた
占守島を守っていたのは第91師団。玉音放送を聞いた守備隊は、戦闘ではなく武装解除の準備に入っていた。戦争は終わった、あとは武器を置いて帰るだけ——そういう段階だった。
そこへ、8月17日深夜から18日未明にかけて(開始時刻は資料によって幅がある)、ソ連軍が島の北東岸・竹田浜に上陸してくる。ソ連の対日参戦は8月9日。千島列島の占領は、8月15日を過ぎてから本格化した。
「十一」を縦に組むと「士」になる
迎え撃った部隊の中に、戦車第11連隊がいた。通称「士魂(しこん)部隊」。「十一」の字を縦に組み合わせると「士」になることから、そう呼ばれた。
連隊長の池田末男大佐は、8月18日朝、四嶺山方面の激戦の先頭で戦死した。戦死の場所や時刻は資料によって記述が分かれるが、停戦後、焼けた隊長車の中で見つかったことが伝えられている(東北工業大学・木戸博教授のエッセイ)。
この「士魂」の名は、いまも陸上自衛隊の第11戦車隊(北海道・北恵庭駐屯地)が継承している。
「自衛戦闘」という枠
ここで一つ、押さえておきたいことがある。日本側の反撃は、命令系統の上では「自衛戦闘」だった。
大本営は8月16日、やむを得ない自衛戦闘を除く戦闘行動の停止を命じていた。札幌の第5方面軍司令官・樋口季一郎中将は、占守島へのソ連軍上陸の報を受けて反撃を電令する。防衛省防衛研究所の史料紹介ページは、この命令で「水際でソ連軍の上陸部隊に大損害を負わせ」たと記している。
つまりこの戦闘は、戦争を続けるための戦いではなく、武装解除前の部隊が上陸軍を押し返すための戦いだった。だから終わり方も早い。8月18日夕方には日本側が積極戦闘を停止し、19日朝から停戦交渉、21日に降伏文書調印、23日に武装解除——出来事はこの順で進んだ。
死傷者の数について
死傷者の数は、日ソどちらの資料を採るか、どの範囲を数えるかで大きく変わるため、一つの数字では書けない。確かなのは、玉音放送のあとの戦闘で、日ソ双方に千人単位の死傷者が出たことだ。北海道大学の研究論文(井澗裕「占守島・1945年8月」)は、双方あわせて少なくとも1,500以上としている。
兵士たちは、南ではなく北へ運ばれた
武装解除された将兵は、日本へは帰れなかった。
舞鶴引揚記念館の資料によると、捕虜となった将兵は「日本帰国」と偽られてソ連船に乗せられ、シベリアへ送られた。10月中旬のことだ。国立国会図書館のレファレンス記録には、戦車第11連隊を含む部隊が「第九作業大隊」に再編されてウラジオストクへ護送された経緯が残っている。抑留は2年から4年に及んだ。
シベリア抑留は全体で約57万5千人が連行され、約5万5千人が亡くなったとされる(この数字は占守島だけでなく抑留全体のものだ)。占守島の戦いは、終戦後の戦闘であると同時に、シベリア抑留の入口でもあった。
「北海道を守った」と語られることについて
この戦いには、よく添えられる評価がある。「占守島の抵抗が、ソ連軍の北海道占領を防いだ」というものだ。
事実として確認できるのはこうだ。スターリンは8月16日、トルーマンへの書簡で留萌と釧路を結ぶ線から北の北海道占領を要求した。トルーマンは数日のうちにこれを拒否する。ソ連軍が準備していた留萌への上陸作戦は、8月22日に中止された。
樋口季一郎自身は後年、「もし占守島の自衛戦闘がなかったら、ソ連軍は、北海道にまで上陸してきたかもしれない」と回想している(防衛研究所の史料紹介ページが回想として掲載)。一方で、ソ連軍の作戦中止の理由については、米国の拒否を主因とする見方、ソ連軍内部の慎重論を挙げる見方など、研究者の間でも評価が分かれている。北海道新聞の検証記事の見出しも「スターリンの真意、今も見解分かれる」だ。
占守島の抵抗が歴史を変えたのかどうか、断定はできない。ただ、終戦後に上陸してきた軍隊を水際で押し返した戦闘があり、その3日後に北海道上陸作戦が中止された——この時系列だけは動かない。
いま、島に残るもの
占守島は現在、無人島だ。1951年のサンフランシスコ平和条約で、日本は千島列島に対するすべての権利を放棄した(北方四島と違い、占守島は放棄した千島列島に明確に含まれる)。ただし条約は帰属先を定めておらず、現在はロシアが実効支配している。
島には戦車の残骸が置かれたままになっていて、遺骨収集も続けられてきた。2016年には、占守島で収容された遺骨から初めてDNA鑑定で身元が特定され、小樽出身・当時23歳の兵士の遺骨が遺族のもとへ帰った(日本経済新聞)。
慰霊碑は動いている。池田連隊長の出身地・豊橋に1977年に建立された戦車第11連隊の慰霊碑は、2023年5月、遺族の手で北海道千歳市の陸上自衛隊東千歳駐屯地の史料館へ移設された(東愛知新聞)。樋口季一郎の銅像は2022年に出身地の淡路島に建立され、札幌護国神社には2027年8月18日——占守島の戦いが始まった日——に除幕式が予定されている。
8月15日を挟んで
このサイトでは、終戦の前日・8月14日の京橋駅空襲を書いた。今回は終戦の3日後に始まった戦闘を書いた。
カレンダーの8月15日の前後どちらにも、戦争の出来事が続いている。占守島は、その「あと」の側のいちばん端にある。
場所と資料は占守島のページにまとめてある。
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