生田神社と生田の森(神戸という市名の由来)|何があった場所か
神戸市中央区下山手通に鎮座する生田神社は、市の名そのものの由来といわれる社である。神戸市の広報コンテンツは、昔は神社に税を納める家のことを神戸(かんべ)といい、生田神社の神戸が近くにあったことが今の市名である神戸(こうべ)のもとになったと説明する。神戸(かんべ)は律令制で神社に属し、租・庸・調や雑役を神社に納めた民戸を指す語で、精選版日本国語大辞典は神封戸とも呼ぶとする。日本大百科全書は、806年に摂津44戸をもって生田神社の神封とされ、当地を神戸と称するのはこの生田社の神戸によるものといわれる、と記す。神戸市中央区の刊行物には、10世紀の和名抄に八部郡の郷の一つ、神戸郷(かんべのさと)が見え、のちの神戸村から城ケ口あたりに当たるとある。 生田神社の起源について、同じ刊行物は、日本書紀で神功皇后が稚日女尊を祀った活田長峡国が社のはじまりといわれ、その地は砂山(丸山)であったが、後に洪水で社が流され現在地に移ったと伝えられる、と記す。日本歴史地名大系は、同じ伝えの典拠に摂津名所図会を挙げる。市の広報は、その折に松が役に立たなかったため生田の神は松を嫌い、正月にも門松ではなく杉飾りを立てると伝える。 本殿の背後に残る生田の森は古くから歌に詠まれた地で、新古今和歌集の巻第四秋歌上には藤原家隆の一首が収められる。1184年の源平の合戦を兵庫県立歴史博物館は生田森・一の谷合戦と呼び、2月7日の朝に源範頼の軍勢が生田森を、源義経の軍勢が須磨一の谷を攻めたと解説する。日本大百科全書は、生田の森を一ノ谷城の東の木戸口に当たる地と記す。

時のながれ
- 社伝 — 神功皇后が三韓からの帰途、稚日女尊の教えにより活田長峡国に祀ったのが起源と伝わる。
- 799年 — 生田神社の由緒は、延暦18年に布引の渓流が氾濫して砂山の西端が崩壊し、神体を背負って現在地へ移したと記す。
- 806年 — 日本大百科全書は、大同元年に摂津44戸をもって生田神社の神封とされたと記す。
- 927年 — 延喜式の神名帳は、摂津国八部郡に生田神社を名神大と記す。
- 10世紀 — 和名抄に、摂津国八部郡の郷の一つ、神戸郷(かんべのさと)が見える。
- 1184年 — 2月7日の朝、源範頼の軍勢が生田森を、源義経の軍勢が須磨一の谷を攻めた。
- 1336年 — 足利尊氏が新田義貞の軍を破り、新田は生田の森まで退いた。
- 1889年 — 市制の施行により神戸市が誕生した。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 神戸市の広報コンテンツは、昔は神社に税をおさめる家のことを神戸(かんべ)といい、生田神社の神戸が近くにあり、これがいまの市の名前である神戸(こうべ)のもとになっていると説明する。
- 日本大百科全書は、806年(大同元年)に摂津44戸をもって生田神社の神封とされ、当地を神戸と称するのはこの生田社の神戸によるものといわれる、と記す。改訂新版世界大百科事典も、806年に神戸44戸を充てられたと記す。
- 精選版日本国語大辞典は、神戸(かんべ)を令制での神社の封戸とし、神社に属して租・庸・調や雑役を神社に納めた民戸、神封戸とも呼ぶと説明する。
- 神戸市中央区の刊行物は、10世紀の和名抄に摂津国八部郡の神戸郷(かんべのさと)が見え、のちの神戸村から城ケ口あたりに当たると記す。
- 神戸市中央区の刊行物は、生田神社のはじまりの地を砂山(丸山)とし、後に洪水で社が流されて現在地に移ったと伝えられると記す。神戸市の広報は、その砂山を新神戸駅の北側と説明する。
- 日本歴史地名大系は、大洪水で砂山の麓が崩壊したため刀根七太夫が神体を背負って現在地に移したという伝えの典拠に摂津名所図会を挙げる。
- 生田神社の由緒は、この移座を延暦18年(799年)の出来事とし、布引の渓流が氾濫して砂山の西端が崩壊し、生田村の刀禰七太夫が神体を背負ったと記す。
- 日本歴史地名大系は、延喜式神名帳の八部郡に生田神社が名神大と記されると説明する。
- 兵庫県立歴史博物館は、この合戦を生田森・一の谷合戦と呼び、2月7日の朝に源範頼の軍勢が生田森を、源義経の軍勢が須磨一の谷を攻めたと解説する。同館は、同時代史料の玉葉に範頼が大手を攻めたとある点を挙げ、平家方が生田森から須磨までおよそ10キロにわたって布陣していたと記す。
- 国際日本文化研究センターの和歌データベースの新古今集巻第四秋歌上に、藤原家隆の「きのふだに とはむとおもひし つのくにの いくたのもりに あきはきにけり」が収められる。
そのため、このページではこうしています
- 合戦の全体像は須磨側の一ノ谷の項に譲り、こちらは東の大手に当たる生田森の側と、市名の由来を主に据えた。
- 市名の由来は、市の広報が言い切る一方で辞典が伝聞の形を採るため、双方の書き方をそのまま並べた。
- 坂落しの位置については諸説が並立するため、この項では扱わなかった。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 806年の神封の記録が新抄格勅符抄に収められた大同元年の太政官牒であることは複数の辞典が一致するが、そこに生田神四十四戸と記された原文そのものは確認できなかった。
- 生田神社を流した川であることが生田川の名の由来である、という説明は公的な資料では確認できなかった。神戸市中央区の刊行物は、生田川を中心に生田の森や生田郷があったと記すにすぎない。
- 神戸市の現行の公開資料には市名の由来の説明が見あたらない。由来を言い切る広報コンテンツは、2025年1月19日時点の保存版で確認した。
- 移座の理由について、神戸市中央区の刊行物は洪水で社が流されたと記し、生田神社の由緒は氾濫で砂山の西端が崩壊して社殿が傾斜したと記す。
- 生田の森と枕草子の関係について、生田神社は枕草子の森の段に生田の森があると記す。一方、流布する枕草子の森の段に並ぶ森の名に生田の森は見あたらず、社の段に生田の社が挙がる。日本大百科全書は、生田の森が詠まれた集として拾遺和歌集・順徳院百首・夫木和歌集を挙げる。
- 合戦の年次表記について、精選版日本国語大辞典と日本大百科全書は元暦元年と記し、生田神社と兵庫県立歴史博物館は寿永3年と記す。いずれも西暦1184年に当たる。
- 神封の全国総数について、日本大百科全書は806年の牒で170社5884戸と記し、改訂新版世界大百科事典は新抄格勅符抄の神封部に4876戸と記す。
参考・出典
- 中央区歴史トリップ!-先史・古代-(区制40周年記念事業 中央区歴史講座 資料)
神戸市中央区役所 - 中央区歴史トリップ!-中世・近世-(区制40周年記念事業 中央区歴史講座 資料)
神戸市中央区役所 - 中央区のあゆみ(先史時代・古代)
神戸市中央区役所 - こうべキッズ百科:文化(神社・寺院)2025年1月19日時点の保存版
神戸市(インターネットアーカイブ収録) - 由緒のご紹介
生田神社 - 生田神社境内の施設紹介
生田神社 - 生田神社(日本大百科全書・改訂新版世界大百科事典・日本歴史地名大系ほか)
コトバンク - 生田の森(精選版日本国語大辞典・日本大百科全書ほか)
コトバンク - 神戸(精選版日本国語大辞典・日本大百科全書・改訂新版世界大百科事典ほか)
コトバンク - 生田森・一の谷合戦あらすじ(絵解き 源平合戦図屏風)
兵庫県立歴史博物館 - 生田森・一の谷合戦の実像(コラム2 本当の一の谷合戦)
兵庫県立歴史博物館 - 和歌データベース 新古今集
国際日本文化研究センター - 生田神社(Feel KOBE 神戸公式観光サイト)
一般財団法人神戸観光局
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
近くの痕跡
- 旧生田川の付け替え跡(フラワーロードと加納町の由来)(水の痕跡・約510m)
- 三宮神社と生田裔神八社(「三宮」という地名の由来と伝わる社)(地の痕跡・約569m)
- 旧国立移民収容所と移住坂(海外移住と文化の交流センター)(地の痕跡・約626m)
- 北野天満神社(福原京の鬼門鎮護と伝わる社)(方位の痕跡・約806m)