四日市市泊町の履歴書
とまりちょう
三重県四日市市 / 〒510-0884
- 氏名
- 泊町
- 生年
- 1967年旧大字「日永」と旧大字「泊村」の各一部から新設
- 出身
- 旧・泊村/旧・日永
- 身長
- 約 4.2 m
- 体質
- 砂州・砂丘
- 経歴
- 痕跡3件(町域内0・徒歩圏3)
- 最古の記録
- 江戸期・東海道の縄手(現地説明板)
- 未解明
- 7件
※標高・地形は町の代表点の値。
旧東海道沿いに、一本だけ残る松がある。その松に添えられた説明板に、この町の名が出てくる——松並木が続いた区間の、行き着く先として。
町域の中に登録した痕跡は、まだない。だが歩いて数分の距離に三つある。この履歴書は、その三つと、まだ埋まっていない空白でできている。
先に断っておくことがある。「泊町」という町名そのものは、それほど古くない。地名の「泊」は江戸期の記述に出てくるが、いまの町域が「泊町」と呼ばれるようになったのは戦後だ。
地形
| 項目 | 値 |
|---|---|
| 標高(代表点) | 約 4.2 m 標高データの精度: 5m(レーザ) |
| 地形分類(自然地形) | 砂州・砂丘 主に現在や昔の海岸・湖岸・河岸沿いにあり、周囲より高い砂礫質な土地。波によって打ち上げられた砂や礫、風によって運ばれた砂が堆積することでできる。 |
代表点: 北緯 34.939445 / 東経 136.599020(『令和2年国勢調査 小地域境界データ』(総務省統計局)を加工して作成)
出典: 国土地理院。標高は標高API、地形分類はベクトルタイル提供実験「地形分類」を加工して作成。
※地形分類は、その分類に一般的な成り立ちを示すものです。個別の土地の状態や安全性を示すものではありません。
上の値は、町の代表点にあたる一点で測ったものだ。町域すべてがこうだとは限らない。
町域に接する河川はない。国土数値情報の河川データ(平成20年度・三重県)で確かめると、最寄りの天白川まで約1.1km、内部川まで約1.7kmある。
旧東海道の道筋を、日永の追分から一本松までの約880mのあいだ9点に刻んで、国土地理院の地形分類を引いてみた。9点のうち7点が砂州・砂丘で、標高は南の6.6mから北の2.6mへ下る。街道はこの区間で、砂の高まりの上を通っている。
一本松の説明板は、東海道がこの区間で土手の上を通っていたと記している。街道が土手を必要としたということは、周囲が低かった可能性を示す。ただしこれは推測であって、資料ではない。
地名の由来
「泊町」という町名は、昭和42年(1967)に旧大字「日永」と旧大字「泊村」のそれぞれ一部から新しく作られたものである。いまも大字「泊村」は別に残っている。つまりこの町域は、江戸期の泊村とそのまま重なるわけではない。(この経緯は Wikipedia「四日市市の地名」が『角川日本地名大辞典 24 三重県』(1983)を典拠として記している。当サイトは同辞典の原文を確認していない)
では「泊」という地名そのものはどこから来たのか。四日市市立博物館の副館長が監修した地元紙「YOUよっかいち」のコラムは、「泊はその昔入り江になっていて、船泊り、停泊を略したもの」と書いている。同じコラムは「日永地区はその昔、海でした。鎌倉時代頃に海岸線が後退して広大な土地が広がりました」とも記す。代表点の地形分類が砂州・砂丘——昔の海岸沿いにできる砂の高まり——だったことと、この説明はよく合う。
ただし当サイトは、この由来を書いた一次資料、つまり市史や地名辞典の該当項目にまだ到達していない。監修つきの二次資料が一つある、という段階である。合っていそうだ、では書かない。
確かなのは、江戸期にはすでに「泊」という集落名で呼ばれていたことだ。旧東海道沿いの一本松に立つ説明板が、松並木のあった区間を「この辺りから泊の集落まで」と記している。
この町と周辺の痕跡
町域の中には、まだ一つも登録していない。三つとも町の外にある——それも、歩いて数分の外に。一本松は日永五丁目、追分は追分三丁目、要塞砲は大字六呂見。いずれも令和2年国勢調査の町丁境界データで確かめた。
町域内 0件 / 町域から1km圏 3件。
地 東海道名残りの一本松(日永の縄手跡) — 北東へ 450m(町域からは約150m)
旧東海道沿いに一本だけ残る松。かつてこの辺りから泊の集落までは街道の両側に低い土手が築かれ、その上に松が並んでいた。家が一軒もないこの区間は「縄手(なわて)」と呼ばれ、この松はそこに植えられていたものの生き残りだと、現地の説明板は記す。
この説明板は、泊を街道の区間の端として名指しした、当サイトが把握する唯一の一次資料である。松並木の一方の端が泊だった、と読める。この町の名が出てくる古い記述を、当サイトはほかに持っていない。
説明板は道幅にも触れている。縄手の道幅は土手も入れて約五間(9メートル)。松のなくなった現在の道幅とほぼ一致する。旧東海道そのものの道幅は三間(約5.5メートル)で、こちらも今と変わっていない。土手の上に松が並んでいた景色だけが消えて、道の幅は残った、ということになる。
四日市観光協会の散策マップは、この松について「昔は300本余りも続く松並木だったといわれているが、現在は、街道筋に1本だけ残っている」と書く。300本が1本になった年代を、当サイトはまだ確かめていない。
地 日永の追分(東海道と伊勢街道の分岐・県史跡) — 南へ 440m(町域からは約150m)
江戸と京を結ぶ東海道から伊勢街道が分かれる分岐点。安永3年(1774)、江戸の伊勢商人・渡辺六兵衛が「参宮街道の分岐に遥拝鳥居がないのは遺憾」と私財で伊勢神宮遥拝鳥居を建てた。鳥居は式年遷宮に合わせて建て替えを重ね、現在は平成28年(2016)移建の十代目。昭和13年(1938)県史跡指定。
いま立つ十代目の鳥居は、平成28年(2016)10月に伊雑宮の鳥居を移して建てたものである。県史跡への指定は昭和13年(1938)4月12日。
江戸期には四日市宿と石薬師宿のあいだの「間の宿」として栄え、旅籠や茶店が並んだと伝わる。手水所にはいまも湧き水が流れていて、水を汲みに来る人が絶えない。
戦 日永の要塞砲(南日永こども広場・通称「大砲公園」) — 東へ 860m(町域からは約700m)
住宅街の小さな児童公園に、1883年(明治16年)ドイツ・クルップ社製の要塞砲が展示されている。大正13年頃に地区へ寄贈されて日永小学校の校門前に置かれ、終戦直後に地区民の手で土中へ埋められた。1981年の排水路改修工事で偶然掘り出され、いまは地区の資料として保存されている。
なぜ埋めたのかは、説明板にも、確認できた資料にも書かれていない。当サイトは理由を推測して書かない。掘り出されるまでの36年間について分かっていることは、記事終戦の日に埋められた大砲が、36年後に工事で出てきたにまとめた。
もうひとつ、町の外の話を書いておく。采女城跡保存会のガイドブックが『日永郷土史』から引く「わかれ坂」の伝承である。永禄11年、古里城主の式井師貞が後藤采女正を頼って落ちのびる際、泊村の西奥——いまの安政池のあたりを通り、そこで愛馬と別れたという。泊と采女という、この履歴書の二つの町を結ぶ物語は、いまのところこれひとつだ。
※方位と距離は事実の配置であり、吉凶を意味しない。
時のながれ
| 時期 | 出来事 |
|---|---|
| 江戸期 | 東海道の両側に低い土手が築かれ、その上に松並木が続いた。この辺りから泊の集落までは家が一軒もなく「縄手」と呼ばれた(現地説明板) |
| 安永3年(1774) | 北隣の日永で、伊勢商人・渡辺六兵衛が追分に伊勢神宮遥拝鳥居を建立(四日市市) |
| 明治16年(1883) | ドイツ・クルップ社が要塞砲を製造。のちに日永へ渡る(現地説明板) |
| 明治22年(1889) | 4月1日、町村制施行で三重郡日永村が成立(日永村・泊村と、六呂見村の大部分)。※日永村の成立を明治24年(1891)とする地元資料もあり、当サイトはどちらとも断定しない |
| 大正13年(1924)頃 | 要塞砲が日永地区へ寄贈され、日永小学校の校門前に展示される(現地説明板) |
| 昭和13年(1938) | 4月12日、日永の追分が三重県の史跡に指定される |
| 昭和16年(1941) | 2月11日、日永村が四日市市へ編入される |
| 昭和20年(1945) | 6月18日〜8月8日、四日市空襲。市全体で死者800余名・被災者49,198人(四日市市) |
| 昭和20年(1945)7月24日 | 模擬原爆(パンプキン)が「安政池」に着弾。ここはいまの泊町の町域ではなく、旧大字泊村——代表点から西へ約1kmの地点にあたる。北側の海軍官舎が被災し、親子2人が亡くなった(読売新聞/早川寛司『空襲通信』18号) |
| 昭和20年(1945)頃 | 終戦直後、要塞砲が地区民の手で土中に埋められる。理由は記録にない(現地説明板) |
| 昭和42年(1967) | 旧大字「日永」と旧大字「泊村」の各一部から、町名「泊町」が新設される |
| 昭和56年(1981) | 6月、排水路改修工事中に要塞砲が掘り出される(現地説明板) |
| 平成28年(2016) | 10月、日永の追分の鳥居が第十次に建て替えられる |
| 年代不明(近代以降) | 街道の松並木が失われ、一本松のみが残る(現地説明板・四日市観光協会) |
| 現在 | 旧東海道の道幅は三間(約5.5メートル)のまま変わっていない(現地説明板) |
❓まだ分かっていないこと
この町の履歴書は、まだほとんど白紙だ。分かっていないことを、分かっていないまま並べておく。
- 「泊=船泊り」の一次資料。博物館の監修がついたコラムは確認したが、市史や地名辞典の該当項目には到達していない。次に当たるのは『日永郷土史』(四日市市立図書館 地域資料室)だと考えている。
- 日永村の成立年。町村制の施行にあわせた明治22年(1889)とする資料と、明治24年(1891)とする地元資料の二つがある。どちらとも断定できていない。
- 松並木がいつ失われたのか。「300本余り」が「1本」になった年代を記した資料に到達していない。
- 一本松の説明板の設置者と設置年。撮影した写真の画角外で、読み取れていない。
- 泊町域の空襲被害。四日市空襲の市全体の数字はあるが、町丁単位の記録は確認していない。
- 安政池の正確な位置。旧大字泊村にあったと分かっているだけで、地点までは特定できていない。
- 泊町域に残る石造物。四日市市の文化財保存活用地域計画の日永地区リストに、泊町域のものは1件も載っていない。「無い」のか「あるが未登録」なのかは、まだ分からない。
📷 この町を歩く人へ — 街で見つけた「土地の記憶」を募集している。説明板・石碑・旧町名の表示・暗渠の跡。誰でも入れる場所にある、文字の書いてある、公のもの。それが調査の入口になる。
ひとつだけ確認。その場所に立つために、柵を乗り越えたり、立入禁止の札を無視したり、閉まっている門をくぐったりしていないこと。それだけ守ってもらえれば十分だ。
お願い: ①ご自身で撮影した写真 ②場所 ③撮影日 を添えてほしい。この土地の記憶を投稿する
出典
- 現地説明板「東海道名残りの一本松」(設置者名は写真の画角外/2026-08-13 撮影確認)
- 現地説明板(日永地区連合自治会/2026-08-07 撮影確認)
- you-yokkaichi.com
- city.yokkaichi.lg.jp
- 日永の追分 | 四日市市役所
city.yokkaichi.lg.jp - bunka.pref.mie.lg.jp
- city.yokkaichi.lg.jp
- 四日市市教育委員会『四日市市文化財保存活用地域計画』
- 日本郵便「郵便番号データ(24MIE.CSV)」
- 国土数値情報「河川データ(平成20年度・三重県)」(国土交通省)
- 早川寛司「1945年7月24日 四日市第二海軍燃料廠のパンプキンを探して」『空襲通信』18号(2016年8月)
- web.archive.org
- ja.wikipedia.org
- uub.jp
- 標高・地形分類: 国土地理院(標高API/ベクトルタイル提供実験「地形分類」を加工して作成)
- 町丁の境界と代表点: 『令和2年国勢調査 小地域境界データ』(総務省統計局)を加工して作成
最終確認日: 2026-09-03 / この履歴書は資料が増えるたびに書き換わる