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四日市市釆女町の履歴書

うねめちょう

三重県四日市市 / 〒510-0954

氏名
釆女町
出身
旧・内部村 采女(古代の采女郷)
身長
約 14.1 m
体質
氾濫平野・海岸平野
経歴
痕跡2件(町域内2・徒歩圏0)
最古の記録
和銅5年(712)『古事記』景行天皇条の杖衝坂
未解明
8件

※標高・地形は町の代表点の値。

内部川と足見川が合流するあたり。川沿いの丘に、戦国の山城の跡が残っている。この町の名は、その城の名にもなっている——采女城。

そして同じ町域の南寄りに、古事記に出てくる坂がある。「三重」という地名の由来譚が結びついた坂だ。古代の伝承と、戦国の城と、江戸の街道が、歩ける範囲に折り重なっている。

地形

項目
標高(代表点)約 14.1 m
標高データの精度: 5m(レーザ)
地形分類(自然地形)氾濫平野・海岸平野
起伏が小さく、低くて平坦な土地。洪水で運ばれた砂や泥などが河川周辺に堆積したり、過去の海底が干上がったりしてできる。

代表点: 北緯 34.922593 / 東経 136.576123(『令和2年国勢調査 小地域境界データ』(総務省統計局)を加工して作成)

出典: 国土地理院。標高は標高API、地形分類はベクトルタイル提供実験「地形分類」を加工して作成。

※地形分類は、その分類に一般的な成り立ちを示すものです。個別の土地の状態や安全性を示すものではありません。

上の値は、町の代表点にあたる一点で測ったものだ。釆女町は国勢調査の境界データで約3.3平方キロメートルあり、内部川沿いの平地と、城跡のある丘の両方を含む。代表点は平地の側に落ちている。

城跡のほうは、ずっと高い。「標高50〜70メートルの複雑な丘陵地形の尾根筋」に城域が広がると、内部地区の資料と保存会のガイドブックが記している。代表点の14.1mとは50メートル以上の差がある。ひとつの町の中に、それだけの高低差がある。

町域を流れるのは内部川・足見川・春雨川・小池川(国土数値情報の河川データ)。采女城が「内部川と足見川の合流点を望む丘」に築かれたことは、資料で確認できている。2本の川に挟まれた丘という地形が、そのまま城の立地条件になった——とここまでは事実の配置として言える。ただし築城の理由を地形から説明した資料は、まだ見つかっていない。

地名の由来

先に、字の話をしておく。町名は「釆女町」——「釆」はのごめへんで、「采」とは別の字である。四日市市の町名一覧も、日本郵便の郵便番号データも、国勢調査の境界データも、そろって「釆」を使う。いっぽう、古代の郷名「采女郷」、戦国の城「采女城」、古事記の「三重の采女」は「采」で書かれる。四日市市の文化財保存活用地域計画は、同じ段落の中で「采女の地名は…現釆女町の町名の由来となっています」と、この二つを書き分けている。当サイトもそれに倣う。検索でどちらか片方しか出てこないことがあるのは、この使い分けのためだ。

その「采女」の名は、古代の采女郷にさかのぼる。四日市市教育委員会の『四日市市文化財保存活用地域計画』は、「采女の地名は、古代采女郷に由来し、『古事記』にある『三重の采女』の故事に関連して、大和王権との関係を取り結ぶ有力な豪族の存在がうかがわれます。現釆女町の町名の由来となっています」と記す。

では「采女」とは何か。三重県の県史あれこれは「『采女』とは、古代、朝廷に仕え主に天皇の食膳の奉仕をした下級の女官のことです」と説明し、「地方豪族は、朝廷への服従の証拠として自分の娘を采女として、差し出したのです」と続ける。

ただし、三重の采女が四日市の采女郷の出身なのかどうかについては、同じ県史が「という人もあります」と書くにとどめている。書きぶりの濃さが、資料によってはっきり違う。市の法定計画は断定し、采女城跡保存会のガイドブックは「伝えられ」と書き、県は「という人もある」と書く。当サイトは、その濃淡をならさずにそのまま残しておく。

城との順序も押さえておく。後藤家の系図には、後藤基秀が采女郷の地頭職に任ぜられ、宇野部山(采女山)に城を築いたと伝わる(文応元年/1260年とされる。文治年間・基清築城の説もある)。つまり「采女」という地名が先にあり、そこに築かれた城が采女城と呼ばれた、という順序になる。

なお、町域の南寄りにある杖衝坂は「三重」という地名の由来譚と結びついている。古事記の景行天皇条では、杖衝坂の命名と「三重」の命名は別の記事である点に注意がいる。杖を衝いて登った地が杖衝坂、「吾が足は三重の勾の如くして甚疲れたり」と言った地が三重村とされる。この「三重」がのちの三重郡になり、明治5年(1872)、安濃津県の県庁が三重郡四日市へ移った際に、郡名から県名が採られた。

この町と周辺の痕跡

町域の中に二つ。どちらも令和2年国勢調査の町丁境界データで町域内と確かめた。そして二つとも、町の名か県の名の由来に触れている。

町域内 2件 / 町域から1km圏 0件。

戦 采女城跡(後藤氏の居城と伝わる山城) — 町域内(代表点から北へ 830m)

戦の痕跡 / 根拠: 資料確認済み / 位置精度: 地点特定

内部川と足見川の合流点を望む丘に築かれた戦国期の山城跡。3本の尾根に9つの郭が展開し、主郭には深さ6.5mの井戸が残る。後藤氏の居城として約300年続いたと伝わり、織田信長の伊勢侵攻で落城したとされる(年には諸説)。現在は市民緑地として保存会が道を整備している。

城域の広さは、資料によって数字が違う。内部地区の資料は東西200m・南北250mと記し、保存会のガイドブックは測量値として270m×270mを載せる。当サイトはどちらか一方に揃えない。居城として続いた期間は約15代・300年と伝わる。

落城の年には諸説ある。通説は永禄11年(1568)の滝川一益による攻撃だが、保存会自身が史料の矛盾を指摘し、元亀3年(1572)説を最も有力と評価している。当サイトはどちらとも断定しない。

井戸には伝承がある。落城のとき城主は燃える城で自刃し、千奈美姫や奥方はこの井戸に身を投げたと伝えられる。そして後世、「夜な夜な女のすすり泣きが聞こえてくる」「馬のいななきや、女人の悲鳴が細く尾を引く」——そうした語りが伝わっていると、保存会が平成26年に立てた説明板そのものが記している。伝承が伝承として公的に記録されている、めずらしい例である。

現在は四日市市の市民緑地(平成23年/2011年9月1日開設)。2022年(令和4)、登城口に冠木門が設置された(四日市中央ライオンズクラブ創立50周年記念の寄贈)。歩いた記録は記事地元なのに、知らなかったにまとめた。

采女城跡(後藤氏の居城と伝わる山城)のページ

地 杖衝坂(ヤマトタケル伝承と「三重」地名由来の坂) — 町域内(代表点から南東へ 600m)

地の痕跡 / 根拠: 資料確認済み / 位置精度: 地点特定

旧東海道の急坂。古事記に、東征の帰りに傷ついたヤマトタケルが剣を杖の代わりに衝いて登ったことから名付けられたと記される坂の伝承地。「三重」の地名由来譚とも結びつき、坂上には血塚社、坂の途中には芭蕉の句碑が立つ。

坂の入口には金刀比羅宮も立つ。貞享4年(1687)、この坂を馬で越えようとした松尾芭蕉が落馬し「歩行ならば杖衝坂を落馬かな」と詠んだ。坂の途中に立つ句碑は、宝暦6年(1756)に村田鵤州が建てたものである。

坂は難所であると同時に、休むところでもあったらしい。万治元年(1658)の『東海道名所記』は「杖つき坂 ここに饅頭あり…杖つき饅頭これなり」と書いていて、坂の上に茶店があったことが分かる。

但し書きがいる。古事記の記事の順では、この坂は尾津(桑名方面)より前に置かれており、実際の地理の順と合わない。確かな所在地としてではなく、伝承地としての性格を持つ場所である。また、この坂は国・県・市いずれの指定文化財でもない。

この坂が釆女町の町域に入ることは、令和2年国勢調査の町丁境界データで確かめた。それまで当サイトは、どの町丁に属するのか分かっていなかった。

杖衝坂(ヤマトタケル伝承と「三重」地名由来の坂)のページ

※方位と距離は事実の配置であり、吉凶を意味しない。

時のながれ

時期出来事
和銅5年(712)成立『古事記』景行天皇条に「甚疲れませるに因りて、御杖を衝きて稍に歩みたまひき。故、其地を號けて杖衝坂と謂ふ」と記される。続く三重村の場面の「吾が足は三重の勾の如くして甚疲れたり」が「三重」の地名由来として語られる
文治年間(1185〜90)ごろ【異説】後藤基清が築城したとする説がある
文応元年(1260)と伝わる後藤基秀が采女郷の地頭職に任ぜられ、宇野部山(采女山)に城を築いたと後藤家の系図に伝わる
戦国期後藤氏の居城として約15代・300年続いたと伝わる(『布留屋草紙』)
永禄11年(1568)と伝わる織田信長の伊勢侵攻で滝川一益に攻められ落城したと伝わる。ただし保存会は史料の矛盾から元亀3年(1572)説を最有力と評価しており、落城年には諸説ある
江戸期杖衝坂は東海道の難所のひとつとされた。坂の上から少し進んだ辺りには、東海道101番目の一里塚(采女一里塚)が置かれた
万治元年(1658)『東海道名所記』(浅井了意)が杖衝坂と「杖つき饅頭」を記す。坂の上に茶店があった
貞享4年(1687)松尾芭蕉が杖衝坂で落馬し「歩行ならば杖衝坂を落馬かな」と詠む
宝暦6年(1756)村田鵤州が坂の中ほどに芭蕉の句碑を建てる
宝暦13年(1763)『三国地誌』が采女七郷(釆女・杖突・古市場・清水・小松・羽木・貝家)を記す
明治5年(1872)安濃津県の県庁が三重郡四日市へ移転し、郡名から「三重県」が生まれる(三重県 県史編さん)
昭和18年(1943)内部村が四日市市に編入され、采女は市の町名になる。町名「釆女町」がいつ現在の形に定まったかは、当サイトは確認していない(Wikipedia「四日市市の地名」が『角川日本地名大辞典 24 三重県』を典拠に記す。当サイトは同辞典の原文を確認していない)
大正時代杖衝坂の上の松並木が近代まで残り、紀行文に記される(四日市市文化財保存活用地域計画)
昭和51年(1976)真観寺の本尊が火災で焼失する(昭和57年に再建)
昭和53年(1978)成満寺で釆女公五百年遠忌法要が営まれる
平成15年(2003)采女城跡保存会が設立され、遊歩道や標識の整備が始まる
平成23年(2011)9月1日、采女城跡が四日市市の市民緑地に指定される
平成26年(2014)保存会が「采女城の落城と古井戸の伝承」の説明板を設置
令和4年(2022)登城口に冠木門が設置される(四日市中央ライオンズクラブ創立50周年記念)
2026年8月11日運営者が現地を歩き、説明板を撮影・記録。名前の分からない鳥居を見つける

❓まだ分かっていないこと

釆女は、資料の厚い町だ。それでも埋まっていない穴がある。

  1. 登城口から南へ約180mの、名前の分からない鳥居の正体。注連縄が生きているので、今も誰かが祀っているはずだ。地元の人なら一言で答えが出ると思っている(座標 34.928369 / 136.573214)。
  2. 城内にあるとされる「稲荷神社跡の碑」。確認できる資料が見つからない。
  3. 築城者の人物名。文応元年(1260)の後藤基秀説と、文治年間(1180年代)の基清説がある。どちらとも断定できていない。
  4. 古事記の「三重の采女」が、この采女郷の出身だったのか。三重県の県史は「という人もあります」と書くにとどめている。当サイトもそれ以上のことは言えない。
  5. 采女城の主郭の標高。城域は標高50〜70メートルとされるが、主郭がどの高さにあるのかを記した資料には行き着いていない。
  6. 芭蕉の句碑の移動の経緯。「明治初期に坂ノ下の屋敷へ移され、後に戻された」とする内部地区の記述と、「昭和51年移築」とする観光協会のマップがある。両立するのかどうか、整理できていない。
  7. 杖衝坂・血塚社の伝承の細部。「日本武尊の血に染まった石を葬った」等の伝承があるが、記述に揺れがある。
  8. 釆女町域の戦中の記録。内部川の伏流水が海軍燃料廠の工業用水に使われたという記述は地区単位のもので、町丁単位の記録は確認していない。

📷 この町を歩く人へ — 街で見つけた「土地の記憶」を募集している。説明板・石碑・旧町名の表示・暗渠の跡。誰でも入れる場所にある、文字の書いてある、公のもの。それが調査の入口になる。
ひとつだけ確認。その場所に立つために、柵を乗り越えたり、立入禁止の札を無視したり、閉まっている門をくぐったりしていないこと。それだけ守ってもらえれば十分だ。
お願い: ①ご自身で撮影した写真 ②場所 ③撮影日 を添えてほしい。この土地の記憶を投稿する

訪ねるなら

あすなろう鉄道の内部駅から采女城跡までは徒歩15分ほど。登城口から先は舗装がなく、落ち葉で足場が滑る急坂になる。サンダルや半ズボンは避けたほうがいい。

出典

最終確認日: 2026-09-03 / この履歴書は資料が増えるたびに書き換わる

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