旧中川(荒川放水路開削で残った中川旧流路)|何があった場所か
明治43年(1910)の大水害を契機に開削された荒川放水路(1911年着工・1930年完成)により、蛇行する中川の下流部が本流から分断されて残った川。現在は江東・墨田・江戸川の区境を流れ、親水空間として整備されている。残った区間は全長6.68kmで、「旧中川」と呼ばれるようになったのは昭和41年(1966)4月からである。

近くの痕跡
- 中川船番所跡(小名木川の東端にあった川の関所)(地の痕跡・約45m)
- 「砂町」の地名由来(海を拓いた砂村新田)(地の痕跡・約1.6km)
- 仙台堀川の埋立区間(仙台堀川公園)(水の痕跡・約2.1km)
- 東京大空襲・戦災資料センター(戦の痕跡・約2.3km)
時のながれ
- 江戸中期 — 中川は葛西領一帯の開拓排水路として整備された人工的性格の強い川で、高潮対策等のため屈曲の多い流路だったとされる。
- 明治43年(1910) — 関東地方の大水害で東京下町一帯が浸水し、抜本的な治水対策が求められる。
- 明治44年(1911) — 岩淵から中川河口まで延長約22km・幅約500mの荒川放水路事業に着手。
- 昭和5年(1930) — 荒川放水路が完成。蛇行する中川下流部が本流から分断される。
- 昭和41年(1966) — 分断されて残った区間(全長6.68km)が「旧中川」と呼ばれるようになる。
編集部の調査メモ
資料で確認できたこと
- 「旧中川」と呼ぶようになったのは昭和41年(1966年)4月からである。
そのため、このページではこうしています
- 分断の時期は、東京都建設局が大正13年(1924年)の放水路開削、江戸川区郷土資料室が昭和5年(1930年)の放水路完成を挙げる。両者は工事の別の節目を指すもので、同じ出来事についての食い違いではない。
- 実際の流路は江戸川区と墨田・江東両区の境界にあたる。ピンは旧中川西岸・小名木川合流点の代表点である。
現地確認: 未実施
参考・出典
3件出典に基づいて掲載している
- 2. 荒川放水路の開削
国土交通省 荒川下流河川事務所 - 旧中川|荒川水系
東京都建設局 - 解説シート No.4-8 旧中川
江戸川区郷土資料室
訂正履歴
- :編集部の調査メモの2文と時のながれの1項目、参考・出典のリンク先を改めた。主な変更は、江戸川区の解説シートに「正式」という語が無いため、「旧中川」の呼び名が「正式になった」を「と呼ぶようになった」としたこと、大正13年(1924年)の出来事を東京都建設局の原文どおり「通水」ではなく「放水路開削」としたことだ。解説シートは元のアドレスで開けなくなっていたため、保存された写しへのリンクに差し替えた。
- :説明文に、時のながれと調査メモにある、残った区間の長さと「旧中川」と呼ばれるようになった年月を足した。
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