神奈川奉行所跡(開港の年に置かれた役所の跡に、石碑が立つ)|何があった場所か
横浜市西区、桜木町駅から紅葉橋を渡って紅葉坂を上ると、右手に神奈川県立青少年センターが建っている。その建物の前に、史跡 神奈川奉行所跡と刻まれた石碑が立つ。横浜市西区は、横浜が開港された1859年(安政6年)にこの地へ奉行所が置かれ、戸部役所と呼ばれて、横浜の司法と行政の事務が行われたと記す。ほかに神奈川区へ会所が、中区の港の近くへ運上所が置かれたという。奉行所は1868年(明治元年)に廃止された。
神奈川県立公文書館の紀要に載る論考は、神奈川県の起源を、安政6年の開港に併せて設置されたこの神奈川奉行所とする。同じ論考は、奉行所が当初は戸部にあり、横浜に運上所があったが、のちに二か所あった波止場改処を東西の運上所とし、運上所の跡を新たに奉行所として横浜役所と称し、戸部の奉行所を戸部役所と称した、と記す。明治元年4月20日、戸部と横浜の両役所および東西の運上所の一切の引継ぎが終わり、戸部役所は戸部裁判所、横浜役所は横浜裁判所と改められた。神奈川県の始まりをどの日に置くかは、いまも論じられている。
西区は、戸部役所が、旧東海道の浅間下の近くから急造された横浜道を通って港へ向かう途中の野毛の切通しに近く、旅人を監視する役目があったのではないかと言われている、と記す。坂を行き来する人の流れを見下ろす場所に、役所は置かれていた。

近くの痕跡
- 旧平沼専蔵別邸の亀甲積擁壁(別邸が建っていた斜面に、亀甲積みの石垣が残る)(地の痕跡・約319m)
- 桜川の跡(桜川新道と、川の名を継いだ桜木町・花咲町)(水の痕跡・約337m)
- 旧灯台寮護岸(灯台の役所の名を持つ岸に、明治の石積みが積み直された)(地の痕跡・約689m)
- 旧臨港線護岸(遊歩道の板をはがしたら、臨港鉄道のレールと枕木が現れた)(地の痕跡・約722m)
時のながれ
- 安政6年(1859年) — 横浜が開港し、この地に奉行所が置かれる。戸部役所と呼ばれ、横浜の司法と行政の事務が行われたと横浜市西区は記す。
- 慶応2年6月(1866年) — 水野若狭守良之が神奈川奉行になる。神奈川奉行は当初は5人が交代で務め、後年は2人体制であったようだと神奈川県立公文書館の紀要は記す。
- 慶応3年8月(1867年) — 依田伊勢守盛克が神奈川奉行になると同じ紀要は記す。
- 明治元年(1868年) — 奉行所が廃止されたと横浜市西区は記す。同じ紀要は、同年4月20日に戸部と横浜の両役所および東西の運上所の一切の引継ぎが完了し、戸部役所は戸部裁判所、横浜役所は横浜裁判所と改められたと記す。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 横浜市西区の連載は、桜木町駅の近くの紅葉坂交差点から紅葉橋を渡って紅葉坂を上ると、右側に建つ神奈川県立青少年センターの前に、神奈川奉行所跡の石碑が立つと記す。
- 同じ連載は、横浜が開港された1859年(安政6年)にこの地へ奉行所が置かれ、戸部役所と呼ばれて横浜の司法と行政の事務が行われたとし、ほかに神奈川区へ会所が、中区の港の近くへ運上所が置かれたと記す。
- 同じ連載は、奉行所が1868年(明治元年)に廃止されたと記す。
- 同じ連載は、戸部役所が、旧東海道の浅間下の近くから急造された横浜道を通って港へ行く途中の野毛の切通しに近く、旅人を監視する役目があったのではないかと言われていると記す。
- 神奈川県立公文書館紀要 第10号に載る齊藤達也の論考は、神奈川県の起源を、安政6年の開港に併せて設置された神奈川奉行所とする。
- 同じ論考は、奉行所が当初は戸部にあり横浜に運上所があったが、のちに二か所あった波止場改処を東西の運上所とし、運上所の跡を新たに奉行所として横浜役所と称し、戸部の奉行所を戸部役所と称したと記す。
- 同じ論考は、明治元年4月20日に戸部と横浜の両役所および東西の運上所の一切の引継ぎが完了し、戸部役所を戸部裁判所、横浜役所を横浜裁判所と称したと、太田久好が明治25年7月に刊行した横浜沿革誌から引く。
- 同じ論考は、神奈川奉行だった水野若狭守良之を慶応2年6月から、依田伊勢守盛克を慶応3年8月からとする。
そのため、このページではこうしています
- 座標は石碑である。敷地がどこまで広がっていたかを示す資料に行き当たらなかったため、範囲は置いていない。
- 石碑は県立青少年センターの前にあたる場所に立つ。施設を使う人の出入りや通行の妨げにならないようにしたい。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 石碑がいつ建てられたのかを示す資料には到達できなかった。
- 戸部役所の敷地の広さや建物の配置を示す資料には到達できなかった。
- 跡地の指し方が資料で違う。横浜市西区は石碑が神奈川県立青少年センターの前に立つとし、神奈川県立公文書館の紀要は戸部の奉行所の場所を現在の県立図書館とする。二つの施設はどちらも紅葉ケ丘にあって隣り合うが、同じ一点を指すとは限らない。
- 奉行の人数の数え方が資料で違う。横浜市西区は、奉行が22名任命され、同心や足軽などを入れると最大で千人ほどが務めていたと記す。神奈川県立公文書館の紀要は、神奈川奉行が当初は5人の交代制で、後年は2人体制であったようだとする。
参考・出典
2件出典に基づいて掲載している
訂正履歴
公開後に内容を改めた箇所を、日付とともに記録している。
- :見出しの「石碑ひとつになった」と要約の「建物も門も残っていない」を改めた。資料は石碑が立っていることを記すが、ほかに何も残っていないとは書いていないため。
この場所について
この場所について、いま知っていることを教えてください。