尾張屋橋(昭和のはじめに消えた地名が、橋の名にだけ残っている)|何があった場所か
横浜市西区、国道16号が帷子川と相模鉄道の西横浜駅のホームの上をまたぐところに尾張屋橋がある。横浜市西区は、橋長を183メートル、幅員を21.8メートル、架設年を1981年(昭和56年)とし、橋の一方の浜松町交差点を、市内と湘南方面、横浜と八王子を十文字に結ぶ交通の要所であると記す。橋そのものは新しい。古いのは名のほうである。
同じ資料は、尾張屋という名称を、宝暦の頃(1751年から1764年)に尾張屋九平治が橋の東側一帯を新田開発したことに由来し、昭和3年まで続いた付近の地名であるとしたうえで、現在はこの橋にだけその名が残されていると記す。町の名としては消えたあとも、橋の名としては残った。
なぜこのあたりに新田が開かれたのかは、横浜市道路局河川企画課の川のはなし第十稿がたどっている。宝永4年(1707年)の富士山の噴火で帷子川へ流れ込んだ大量の降灰は、芝生村の沖を浅くし、寄洲や干潟をつくった。帷子川の河口付近の新田開発は江戸時代中期から進み、河口の西側では芝生村に沿って宝暦新田が、東側では戸部村の沖に尾張屋新田が開かれたと同課は記す。年表は尾張屋新田の開始を宝暦年間とする。同じ資料は、これらの新田がいずれも用水に苦労し、水を使わない営農として塩田による製塩が大部分を占め、ごく一部で畑作が行われていたとされるとも記す。

近くの痕跡
- 尻こすり坂(荷車を尻で押さえて下った坂の下を、いまも水道が通っている)(水の痕跡・約507m)
- 石崎橋(横浜道の三つの橋のひとつは、駅ができる時に場所を移した)(地の痕跡・約1.1km)
- 新田間橋(岡野橋になるはずだった、新田と新田のあいだの橋)(地の痕跡・約1.1km)
- 二代目横浜駅基礎等遺構(八年で焼けた駅の土台と、発電所の取水口の跡)(地の痕跡・約1.3km)
時のながれ
- 宝永4年(1707年) — 富士山が噴火する。降灰で芝生村の沖が浅くなり、寄洲や干潟があらわれたと横浜市道路局河川企画課は記す。
- 宝暦年間(1751年から1764年) — 尾張屋九平治が橋の東側一帯を新田開発したと横浜市西区は記す。河川企画課は、帷子川河口の東側、戸部村の沖に尾張屋新田が開発されたとする。
- 昭和3年(1928年) — 尾張屋という地名がこの年まで続いたと横浜市西区は記す。
- 昭和56年(1981年) — いまの尾張屋橋が架設される。橋長183メートル、幅員21.8メートルと同区は記す。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 横浜市西区の橋の概要は、尾張屋橋の架かる川を帷子川、橋長を183メートル、幅員を21.8メートル、架設年を1981年(昭和56年)とし、国道16号を支え、帷子川や相鉄線西横浜駅のホームの頭上を横切る跨線橋であると記す。
- 同じ資料は、橋の一方の浜松町交差点を、市内と湘南方面、横浜と八王子を十文字に結ぶ交通の要所であるとする。
- 同じ資料は、尾張屋という名称を、宝暦の頃(1751年から1764年)に尾張屋九平治が橋の東側一帯を新田開発したことに由来し、昭和3年まで続いた付近の地名であるとし、現在はこの橋にだけその名が残されていると記す。
- 横浜市道路局河川企画課の川のはなし第十稿は、帷子川の河口付近の新田開発が江戸時代中期から進んだとし、河口西側の芝生村に沿って宝暦新田が、河口東側の戸部村(西区戸部町付近)の沖に尾張屋新田が開発されたと記す。同じ資料の年表は、尾張屋新田の開始を宝暦年間(1751年から1764年)とする。
- 同じ資料は、宝永4年(1707年)の富士山の噴火による大量の降灰が芝生村沖の水深を浅くし、次第に寄洲や干潟があらわれて、一帯を新田に開発しやすい場所へ変えたと記す。
- 同じ資料は、帷子川下流域の新田がいずれも用水に苦労し、水を使わない営農として塩田による製塩が大部分を占め、ごく一部で畑作が行われていたとされると記す。
そのため、このページではこうしています
- 座標は、国道16号が帷子川と鉄道をまたぐ橋の中ほどである。橋は183メートルあり、川の上と線路の上の両方にかかる。
- 国道16号は交通量が多い。橋を渡るときは歩道を歩き、車道側へ寄らないようにしたい。
- 橋の下は鉄道の敷地と川である。線路や川へ降りられる場所ではない。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 尾張屋九平治がどのような人物だったのかを記した市の資料には到達できなかった。
- 尾張屋という地名がどの範囲を指し、昭和3年に何という町名へ変わったのかを示す市の資料には行き当たらなかった。
- いまの橋の前に、この場所へ橋が架かっていたのかどうかを示す市の資料には到達できなかった。
- 新田の位置の示し方が資料でやや異なる。横浜市西区は橋の東側一帯とし、道路局河川企画課は河口東側の戸部村の沖とする。どちらも帷子川の河口の東側を指すが、範囲まで重なるとは限らないので、両方の書き方を残した。
参考・出典
2件出典に基づいて掲載している
- 橋の概要(西区の橋)
横浜市西区 - 川のはなし 第十稿 帷子川(横浜駅周辺の新田開発と河川の歴史)
横浜市道路局河川企画課
この場所について
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