野毛山配水池(日本最初の近代水道が始まった山は、いまも水を配っている)|何があった場所か
横浜の近代水道は、1887年(明治20)10月17日に市内への給水を始めた。横浜市水道局はこれを日本で最初の近代水道とし、10月17日を近代水道創設記念日としている。指導したのはイギリス人技師ヘンリー・スペンサー・パーマーで、『横浜水道130年史』は来日当時の肩書きをイギリスの陸軍工兵中佐と記す。取水口は相模川左岸、道志川との合流点付近の三井用水取入所(現在の相模原市緑区)に置かれ、そこから野毛山までを43.9キロメートルの導水路で結んだ。同書によれば野毛山の施設は標高50.5メートルの地にあり、創設当時は野毛山貯水場と呼ばれた。
この水は街の消火にも回された。横浜市消防局の消防年表は1887年9月に「水道の完成に伴い市内各所に球式消火栓131個を設置」と記し、これをわが国最初の消火栓としている。1923年(大正12)の関東大震災で野毛山の浄水場は修理の余地がないまでに破壊され、導水は途中から西谷へ切り替えられた。横浜市みどり環境局の資料によれば、内務省は野毛山を中央公園として計画し、原家・茂木家の別荘地に「隣接する浄水場用地」と市長公舎跡地を加えて取得した。大正14年に都市計画決定、翌年に第一期が開園している。
野毛山はいまも水を配る場所である。横浜市の災害時給水所位置図(2026年8月)には、西区の給水所として野毛山が載る。ただし配水池は現役の水道施設であり、水道局が見学を受け入れているのは川井浄水場・小雀浄水場・青山水源事務所の三か所で、野毛山は含まれない。園内には、配水池の脇に建つパーマーの胸像と、みなとみらいを見晴らす展望台がある。胸像は水道創設100周年の記念事業として、1986年4月に建てられた。
名称は時期で変わる。創設時は貯水場、拡張期は浄水場、震災復興以後は配水池と呼ばれた。震災復興で築かれた円形の配水池は、同書資料編によれば2001年3月29日に運用を停止している。創設時の取水は相模川で、道志川へ水源を移したのは1897年である。函館市の観光情報サイトは、函館の上水道を明治22年完成としたうえで、日本人が設計したものとしては日本初と説明している。施設には手を触れず、柵や表示のある区域には入らないこと。位置は概略である。

近くの痕跡
- 旧平沼専蔵別邸の亀甲積擁壁(別邸が建っていた斜面に、亀甲積みの石垣が残る)(地の痕跡・約460m)
- 長者橋(戦争で消えた灯具を、市民の写真から復元した橋)(地の痕跡・約467m)
- 霞橋(昭和3年の陸橋に、初代・大正2年の煉瓦壁と門柱が残る)(地の痕跡・約630m)
- 神奈川奉行所跡(開港の年に置かれた役所の跡に、石碑が立つ)(地の痕跡・約730m)
時のながれ
- 明治16年(1883) — パーマーが横浜水道工事の報告書を神奈川県に提出する。第二報告書では取水地点を相模川と道志川の合流する地点とし、そこから野毛山までを導水管で結ぶ案が示される。
- 明治18年(1885) — 4月に着工する。パーマーはイギリス陸軍省を退役したのち、監督補佐と職工長を伴って再来日し工事にあたる。
- 明治20年(1887) — 9月に全工事が完了し、同月21日に三井用水取入所が動き出す。同じ9月、市内各所に球式消火栓131個が置かれる。10月4日に野毛山へ水が到達し、10月17日から市内への給水が始まる。
- 明治30年(1897) — 取水地点を道志川へ移し、三井用水取入所は廃止される。取入所の跡は、のちの城山ダム完成で大部分が津久井湖の湖底に沈む。
- 大正12年(1923) — 関東大震災で野毛山の浄水場が修理の余地がないまでに破壊される。川井から野毛山へ向かっていた導水は、途中から西谷へ切り替えられる。
- 大正14年(1925) — 野毛山公園が都市計画公園として決定される。横浜市で最初の都市計画公園にあたる。
- 大正15年(1926) — 野毛山公園が第一期開園する。原家・茂木家の別荘地に、隣接する浄水場用地と市長公舎跡地を加えた土地であった。
- 昭和5年(1930) — 第二期として洋風園地が開園し、公園が完成する。
- 昭和61年(1986) — 4月、水道創設100周年の記念事業として、創設浄水場の跡地にあたる野毛山公園にパーマーの胸像が建てられる。
- 平成13年(2001) — 3月29日、旧野毛山配水池の運用が停止する。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 横浜市水道局『横浜水道130年史』第1章は、1887年(明治20)9月に全工事が完了し、同月21日に三井用水取入所の運転を開始、10月4日に野毛山へ相模川の水が到達し、10月17日から市内への給水が始まったと記す
- 同書は導水路を14万4,064フィート(43.9キロメートル)とし、野毛山の敷地を久良岐郡太田村から戸部村にわたる2.3ヘクタール、標高165.5フィート(50.5メートル)、現在の西区老松町と記す。創設当時の呼称は野毛山貯水場である
- 横浜市水道局の近代水道創設記念日のページは、1887年10月17日にイギリス人技師ヘンリー・スペンサー・パーマーの指導のもと横浜に初めて創設されたとし、10月17日を記念日としている
- 横浜市消防局の消防年表は、1887年(明治20)9月に水道の完成に伴い球式消火栓131個を市内各所へ設置し、わが国最初の消火栓であったと記す
- 横浜市みどり環境局の資料は、内務省が野毛山公園を中央公園として計画し、原善三郎家・茂木惣兵衛家の別荘地と隣接する浄水場用地・市長公舎跡地を取得して整備したとし、大正14年の都市計画決定、翌年の第一期開園、昭和5年の洋風園地開園を記す
- 横浜市の公園紹介は、野毛山公園の所在地を西区老松町63-10、開園を大正15年9月、面積を9.1ヘクタールとする
- 『横浜水道130年史』は、水道創設100周年の記念事業として1986年4月にパーマーの胸像を創設浄水場跡地の野毛山公園へ建立したと記す
- 横浜市西区の紹介文は、胸像が野毛山公園の配水池脇に建つとし、所在を老松町20の1とする
- 横浜市の災害時給水所位置図(2026年8月)に、西区の災害時給水所として野毛山が載る
- 横浜市水道局の見学案内は、受入施設を川井浄水場・小雀浄水場・青山水源事務所の三か所とし、水道記念館は令和3年度に全面閉館したと記す
- 『横浜水道130年史』資料編の年表は、2001年(平成13)3月29日に旧野毛山配水池の運用を停止したと記す
そのため、このページではこうしています
- 水源は時期で異なる。創設時の取水は相模川左岸の三井用水取入所で、道志川へ水源を移したのは1897年である。同じ野毛山を指す名も、貯水場・浄水場・配水池と時期で変わる
- 『横浜水道130年史』は、三井用水取入所が1897年に廃止され、1965年の城山ダム完成で施設跡の大部分が津久井湖の湖底に沈んだと記す
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 震災復興で築かれた円形の配水池2池が、現地にどのような形で残っているか
- 公園の芝生広場や展望台が、配水池の上面に当たるかどうか
- 配水池の周囲がどこまで柵で仕切られ、園路のどこから先が立入禁止になっているか
- パーマーの肩書きは資料で異なる。『横浜水道130年史』は来日当時をイギリスの陸軍工兵中佐とし、横浜市西区の紹介文は英国陸軍退任時に名誉工兵少将へ任ぜられたとする。横浜市水道局の記念日のページはイギリス人技師と呼ぶ
- 日本最初の近代水道について、横浜市は1887年の横浜を最初とする。函館市の観光情報サイトも日本で最初は横浜で明治20年としたうえで、函館の上水道を明治22年9月完成とし、日本人が設計したものとしては日本初と説明する
参考・出典
10件出典に基づいて掲載している
- 横浜水道130年史 第1章 近代水道の創設と大都市横浜の発展を支えた水道拡張 1887〜1987
横浜市水道局 - 横浜水道130年史 資料編
横浜市水道局 - 近代水道創設記念日
横浜市水道局 - 浄水場等の見学
横浜市水道局 - 自治体消防発足以前(横浜市の消防沿革)
横浜市消防局 - 関東大震災と公園・みどり
横浜市みどり環境局 - 野毛山公園(野毛山動物園・西区)
横浜市みどり環境局 - 西区そぞろ歩き 28 胸像と猫のはなし
横浜市西区 - 災害時給水所位置図(配水池・災害用地下給水タンク・耐震給水栓)
横浜市 - 日本最初の日本人設計の上水道
函館市観光部(はこぶら)
訂正履歴
公開後に内容を改めた箇所を、日付とともに記録している。
- :要約の「園内で近づけるのは、胸像と展望台までである」を「園内には、胸像と展望台がある」に改めた。資料は園内のどこまで近づけるかを書いていないため。
この場所について
この場所について、いま知っていることを教えてください。