霞橋(昭和3年の陸橋に、初代・大正2年の煉瓦壁と門柱が残る)|何があった場所か
横浜市西区霞ケ丘と南区三春台の境に、藤棚浦舟通りをまたぐ陸橋が架かっている。横浜市道路・交通政策局橋梁課の資料は、所在地を西区霞ケ丘56-18番地先から南区三春台89-2番地先まで、構造を鉄筋コンクリートアーチ橋、建築年代を昭和3年(1928)とし、煉瓦壁と門柱だけを大正2年(1913)とする。西区役所の資料は、橋長20.6メートル、幅員5.5メートル、久保山の停留所近くと記し、初代は大正2年に建設されたが震災の被害を受け、現在の橋は昭和3年に架け替えられた二代目で、煉瓦壁と門柱は大正当時のものが残されたとする。
一つの場所に、昭和3年の橋と、それより15年前の煉瓦壁・門柱が並んでいることになる。橋梁課は、市内の鉄筋コンクリート・アーチ陸橋を代表する重厚な佇まいで、歩道橋の機能を兼ねるため両側に階段を配する計画が特徴的だとし、同時期に建造された公衆便所や初代の煉瓦壁・門柱と合わせ、大正から昭和の意匠がよく残されていると記す。市の公衆トイレ一覧には、西区霞ケ丘64、久保山バス停付近の久保山公衆トイレが載る。設計は復興局、認定は平成16年(2004)11月で、市内に当時の姿のまま現存する震災復興橋梁37橋の一つでもある。
初代が何のために架けられたのかを記した公的資料は確認できなかった。西区役所の資料は、かつて橋の下を市電の浦舟町行きが通っていたと記す。横浜の市電は明治37年(1904)に横浜電気鉄道として始まり、昭和47年(1972)に姿を消した。霞ケ丘と三春台という町名は、昭和10年(1935)7月1日に南太田町の一部から新設されており、地名の由来を説明した公的資料は確認できなかった。
なお、横浜市内には同じ霞橋の名を持つ橋がもう一つある。中区新山下一丁目の下路式プラットトラス橋で、明治29年(1896)の製作、平成25年(2013)に現在地へ移された別の橋である。ここで扱うのは西区と南区の境の陸橋のほうである。橋は幅員5.5メートルの道路で、両側に階段が付く。示した位置は西区側の橋詰にあたる概略であり、通行の妨げにならないようにしたい。

近くの痕跡
- 野毛山配水池(日本最初の近代水道が始まった山は、いまも水を配っている)(水の痕跡・約630m)
- 新富士見川の跡(八年で消えた先代の川と、跡地の富士見川公園)(水の痕跡・約815m)
- 尻こすり坂(荷車を尻で押さえて下った坂の下を、いまも水道が通っている)(水の痕跡・約831m)
- お三の宮日枝神社(入海を釣鐘の形に埋めた吉田新田と、震災で焼け残った本殿)(水の痕跡・約927m)
時のながれ
- 大正2年(1913) — 初代の霞橋が架けられた。橋梁課の資料は煉瓦壁と門柱をこの年代とし、西区役所の資料は初代がこの年に建設されたと記す。
- 大正12年(1923) — 関東大震災が起き、西区役所の資料によれば初代の橋は震災の被害を受けた。
- 昭和3年(1928) — 二代目が竣功した。設計は復興局、橋長20.6メートル、幅員5.5メートル。初代の煉瓦壁と門柱が残され、近くの公衆便所も同じ時期に建てられたとされる。
- 昭和10年(1935) — 7月1日、南太田町の一部から霞ケ丘と三春台が新設された。
- 昭和47年(1972) — 横浜市電が姿を消した。西区役所の資料は、かつて橋の下を市電の浦舟町行きが通っていたと記す。
- 平成16年(2004) — 11月、横浜市認定歴史的建造物となった。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 横浜市道路・交通政策局橋梁課の歴史的建造物の保全のページは、所在地を西区霞ケ丘56-18番地先から南区三春台89-2番地先まで、構造を鉄筋コンクリートアーチ橋、建築年代を昭和3年(1928)、煉瓦壁と門柱を大正2年(1913)とし、市認定歴史的建造物の認定時期を平成16年(2004)11月と記す。
- 同ページは、現在の霞橋が震災復興事業で建造された二代目であること、歩道橋の機能を兼ねるため両側に階段を配する計画が特徴的であること、同時期に建造された公衆便所や初代創建時の煉瓦壁・門柱と合わせて大正から昭和の意匠がよく残されていることを記す。
- 横浜市都市整備局都市デザイン室の霞橋のページは、所在地を西区霞ヶ丘56から南区三春台90、構造を上路式鉄筋コンクリート・アーチ橋、建築年代を昭和3年(1928)、設計を内務省復興局とする。
- 横浜市認定歴史的建造物 一覧は、霞橋を西区霞ヶ丘から南区三春台、昭和3年(1928)、平成16年度の認定として掲げる。
- 横浜市西区役所の橋の概要は、霞橋を橋長20.6メートル、幅員5.5メートル、架設年1928年(昭和3年)とし、藤棚浦舟通りの一番の高台で久保山の停留所近くに架かること、霞ヶ丘と南区の三春台を結ぶ区界に建つこと、大正2年に建設された橋が震災被害に遭い現在の橋は近くの公衆便所と共に昭和3年に建てられた二代目であること、煉瓦壁と門柱は大正当時のものが残されたこと、かながわの橋100選に選ばれていること、かつて橋の下を市電の浦舟町行きが通っていたことを記す。
- 横浜市橋梁課の震災復興橋梁一覧は、霞橋を第14番として橋長20.6メートル、幅員5.5メートル、竣功年1928年、施工を国(復興局)とし、場所を南区三春台89-2番地先と西区霞ケ丘56-18番地先とする。同じ資料は、震災復興橋梁は最大で178橋あり、当時の姿のまま現存するのは37橋と記す。
- 横浜市市民局の横浜市町区域要覧は、昭和10年(1935)7月1日に南太田町の一部から霞ケ丘と三春台が新設されたと記す。
- 横浜市の公衆トイレ一覧は、西区霞ケ丘64、久保山バス停付近に久保山公衆トイレがあるとし、その位置を北緯35.44382632、東経139.6163487とする。
- 横浜市の広報資料は、横浜の市電が明治37年(1904)に横浜電気鉄道の神奈川と大江橋の間の開通で始まり、大正10年(1921)に横浜市が買収して横浜市電となり、昭和47年(1972)に姿を消したと記す。
- 横浜市都市整備局都市デザイン室の霞橋(旧江ヶ崎跨線橋)のページは、中区新山下一丁目の同名の橋を下路式プラットトラス橋とし、明治29年(1896)に日本鉄道土浦線隅田川橋梁として架橋、昭和4年(1929)に新鶴見操車場へ移設、平成25年(2013)に霞橋として再移設と記す。
そのため、このページではこうしています
- 示した座標は西区側の橋詰にあたる。橋は西区霞ケ丘に始まり南区三春台に至るため、南側の端は南区に入る。
- 横浜市内には同じ霞橋の名を持つ橋がもう一つある。中区新山下一丁目の下路式プラットトラス橋で、明治29年(1896)の製作、平成25年(2013)に現在地へ移されたものであり、西区と南区の境の陸橋とは別の橋である。
- 橋の上と下、そして橋詰とで、資料が示す年代は異なる。アーチと階段は昭和3年、煉瓦壁と門柱は大正2年にあたる。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 初代の霞橋が大正2年(1913)に何のために架けられたのか、何の上を渡すためのものだったのかを記した公的資料は確認できなかった。
- 初代の橋長や幅員、構造を記した資料は確認できなかった。
- 久保山公衆トイレの建築年を記した公的資料は確認できなかった。昭和3年に公衆便所が建てられたという記述と、現在そこに公衆トイレがあるという記述は、それぞれ別の資料による。
- 霞ケ丘、三春台という地名の由来を説明した公的資料は確認できなかった。町名が新設された日付だけが確認できた。
- 橋の下を通っていた市電の路線がいつ開通し、いつ廃止されたかを記した公的資料は確認できなかった。
- 南側の所在地について、橋梁課の資料は南区三春台89-2番地先とし、都市デザイン室の資料は南区三春台90とする。
- 施工について、橋梁課の歴史的建造物の保全のページは不明とし、同じ橋梁課の震災復興橋梁一覧は国(復興局)とする。
- 設計の表記について、橋梁課の資料は復興局、都市デザイン室の資料は内務省復興局とする。
参考・出典
10件出典に基づいて掲載している
- 歴史的建造物の保全
横浜市道路・交通政策局建設部橋梁課 - 霞橋
横浜市都市整備局企画部都市デザイン室 - 横浜市認定歴史的建造物 一覧
横浜市都市整備局企画部都市デザイン室 - 橋の概要(西区の橋)
横浜市西区役所 - 震災復興橋梁
横浜市道路・交通政策局建設部橋梁課 - 震災復興橋梁一覧表(PDF)
横浜市道路・交通政策局建設部橋梁課 - 横浜市町区域要覧 3 市・区・町の沿革(PDF)
横浜市市民局 - 公衆トイレについて(横浜市公衆トイレ一覧)
横浜市資源循環局 - 広報よこはま 4月号 市電の歴史紹介
横浜市交通局・横浜市政策経営局 - 霞橋(旧江ヶ崎跨線橋)
横浜市都市整備局企画部都市デザイン室
訂正履歴
公開後に内容を改めた箇所を、日付とともに記録している。
- :年表の「橋の名のほうが町名より古いことになる」を削った。大正2年の橋がそのときから霞橋と呼ばれていたことを示す資料が無いため。
- :説明文の「霞ケ丘と三春台という町名のほうは橋より新しく」を「町名は、昭和10年に南太田町の一部から新設されており」に改め、町名が新設された年と経緯を資料の書き方どおりに書いた。
この場所について
この場所について、いま知っていることを教えてください。