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霞橋(昭和3年の陸橋に、初代・大正2年の煉瓦壁と門柱が残る)|何があった場所か

自治体史・公的アーカイブ・碑文や現地の掲示など、一次資料で内容を確認済みの情報です。
位置精度: 地点特定 / 最終確認日: 2026-09-19

横浜市西区霞ケ丘と南区三春台の境に、藤棚浦舟通りをまたぐ陸橋が架かっている。横浜市道路・交通政策局橋梁課の資料は、所在地を西区霞ケ丘56-18番地先から南区三春台89-2番地先まで、構造を鉄筋コンクリートアーチ橋、建築年代を昭和3年(1928)とし、煉瓦壁と門柱だけを大正2年(1913)とする。西区役所の資料は、橋長20.6メートル、幅員5.5メートル、久保山の停留所近くと記し、初代は大正2年に建設されたが震災の被害を受け、現在の橋は昭和3年に架け替えられた二代目で、煉瓦壁と門柱は大正当時のものが残されたとする。

一つの場所に、昭和3年の橋と、それより15年前の煉瓦壁・門柱が並んでいることになる。橋梁課は、市内の鉄筋コンクリート・アーチ陸橋を代表する重厚な佇まいで、歩道橋の機能を兼ねるため両側に階段を配する計画が特徴的だとし、同時期に建造された公衆便所や初代の煉瓦壁・門柱と合わせ、大正から昭和の意匠がよく残されていると記す。市の公衆トイレ一覧には、西区霞ケ丘64、久保山バス停付近の久保山公衆トイレが載る。設計は復興局、認定は平成16年(2004)11月で、市内に当時の姿のまま現存する震災復興橋梁37橋の一つでもある。

初代が何のために架けられたのかを記した公的資料は確認できなかった。西区役所の資料は、かつて橋の下を市電の浦舟町行きが通っていたと記す。横浜の市電は明治37年(1904)に横浜電気鉄道として始まり、昭和47年(1972)に姿を消した。霞ケ丘と三春台という町名は、昭和10年(1935)7月1日に南太田町の一部から新設されており、地名の由来を説明した公的資料は確認できなかった。

なお、横浜市内には同じ霞橋の名を持つ橋がもう一つある。中区新山下一丁目の下路式プラットトラス橋で、明治29年(1896)の製作、平成25年(2013)に現在地へ移された別の橋である。ここで扱うのは西区と南区の境の陸橋のほうである。橋は幅員5.5メートルの道路で、両側に階段が付く。示した位置は西区側の橋詰にあたる概略であり、通行の妨げにならないようにしたい。

霞橋(昭和3年の陸橋に、初代・大正2年の煉瓦壁と門柱が残る)の位置を示す地図
この地点の地図(地理院タイルに地点を加筆)

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