「鐘ヶ淵」の地名由来(隅田川に沈んだ鐘の伝承)|何があった場所か
隅田川が大きく曲がるこの地には、江戸時代初期の元和6年(1620)、寺院移転の際に船から梵鐘が川に沈み引き上げられなかったという伝承が残るとされる。化粧品で知られたカネボウ(鐘淵紡績)の社名は、この伝承地名に由来する。鐘紡の工場は昭和44年(1969)に移転し、跡地の白鬚防災団地の一角、カネボウ公園に発祥の地碑が残る。

近くの痕跡
- 石浜城跡(武蔵千葉氏の拠点・石浜神社付近)(戦の痕跡・約1.5km)
- 小塚原回向院(刑死者供養の寺・観臓記念碑)(死の痕跡・約2.0km)
- 小塚原刑場跡(延命寺・首切地蔵)(死の痕跡・約2.3km)
- 浄閑寺(新吉原総霊塔・「投込寺」と呼ばれた寺)(死の痕跡・約2.5km)
時のながれ
- 戦国時代 — 千葉氏が北条氏に敗れた際、戦利品として奪われた瑞応寺の鐘が運搬中に川に沈められたとする説も伝わる。
- 元和6年(1620) — 寺院移転の際、鐘を乗せた船が隅田川で誤って鐘を落とし、引き上げられなかったと伝わる(区公式パネル・普門院説)。
- 江戸中期 — 享保5年(1720)の洪水で長昌寺の釣鐘が流されたとする説もある。将軍徳川吉宗が女性の髪で編んだ毛綱で引き上げを試みたが叶わなかったという逸話が残る。
- 明治20年(1887) — 大手呉服商5社の出資で紡績会社が創立され、明治22年(1889)に鐘ヶ淵の地で操業を開始。地名から鐘淵紡績(のちのカネボウ)と名付けられた。
- 昭和44年(1969) — 鐘紡工場が移転。跡地は白鬚防災団地となり、カネボウ公園に発祥の地碑が残る。
- 昭和58年(1983) — 墨田区が「鐘ヶ淵由来の記碑」を設置。沈鐘説と川の屈曲(曲ヶ淵)説を併記したとされる。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 墨田区の公式パネルの本文で、元和6年(1620年)の寺院移転の際に鐘を落としたという地名由来の逸話と、明治20年(1887年)創立の紡績会社がこの地で操業して鐘淵紡績となった経緯を確認した。
そのため、このページではこうしています
- 淵の正確な位置は特定できないため、隅田川と旧綾瀬川の合流部付近の屈曲点を推定座標としている。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 1983年に区が設置した「鐘ヶ淵由来の記碑」は、沈鐘説を後世の伝説とする趣旨と紹介されるが、碑の現物の文言までは確認できていない。
- 沈んだ鐘の正体には諸説ある。普門院の半鐘とする説、長昌寺の釣鐘が享保5年(1720年)の洪水で流されたとする説、戦国期に千葉氏が北条氏に敗れた際、戦利品として奪われた瑞応寺の鐘が運搬中に川に沈められたとする説。さらに、川の屈曲を指す「曲ヶ淵」に由来するという地形の説もある。
この痕跡を掘り下げた記事
参考・出典
4件出典に基づいて掲載している
- 鐘ヶ淵駅周辺地区 まちづくりパネル(鐘ヶ淵の地名の由来・鐘淵紡績と地区の繁栄)
墨田区 - 鐘紡記念碑(すみだスポット)
一般社団法人墨田区観光協会 - 【週末民話研究】徳川吉宗も興味を示した、鐘ヶ淵の沈鐘伝説
さんたつ by 散歩の達人(交通新聞社) - 鐘ヶ淵(カネガフチ)とは
コトバンク(デジタル大辞泉・日本大百科全書ほか)
訂正履歴
公開後に内容を改めた箇所を、日付とともに記録している。
- :まだ分かっていないことと時のながれで、瑞応寺の鐘を川に沈めたのを千葉氏とする書き方を改めた。出典の記事では、北条氏に敗れた千葉氏ゆかりの鐘が戦利品として奪われ、運ぶ途中で川に沈められたとされるため、沈めたのが誰かを言い切らない形にした。明治20年の項の紡績会社の操業も、墨田区観光協会などの記述どおり、操業の開始は明治22年(1889)と分けた。
- :説明文に、時のながれにある、鐘紡の工場の移転と、カネボウ公園に残る発祥の地碑を足した。
この場所について
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