吉見百穴(古墳時代末の横穴墓219基と、戦争末期の地下軍需工場)|何があった場所か
吉見町の丘陵の斜面に、横穴が並ぶ。町は、古墳時代の末期(6世紀末〜7世紀後半)に造られた横穴墓群で、現在確認できる横穴は219基と記す。穴の壁際には10〜20センチほどの段があり、ここに死者を安置した。入口には緑泥石片岩の石の蓋が立てかけられ、一つの穴に何人も葬る追葬を前提にした造りだと町は記す。明治20年(1887)に発掘調査が行われたが、残ったのはわずかな写真と出土品だけだという。大正12年(1923)3月7日に国の史跡、昭和3年(1928)には横穴の一つに生えるヒカリゴケが国の天然記念物になった。
昭和19年(1944)から20年にかけ、百穴とその周辺の丘陵に地下軍需工場が掘られた。直径3メートルほどの穴が縦横に交差し、碁盤の目のようになっている。町によれば、現在のさいたま市にあった中島飛行機の工場を、空襲を避けて移すためのもので、松山城から岩粉坂まで直線で約1300メートルを4つの工区に分けて進め、吉松工事と呼ばれた。7月頃にはエンジンの部品が造られ始めたようだが、本格的な生産の前に終戦を迎えた。

近くの痕跡
- 狭山湖(山口貯水池の建設で湖底になった勝楽寺の村)(水の痕跡・約29.9km)
時のながれ
- 6世紀末〜7世紀後半 — 吉見町によれば、丘陵の凝灰質砂岩の斜面に横穴墓が造られる。
- 明治20年(1887) — 発掘調査が行われる。吉見町によれば、わずかな写真と出土品を残すのみで、詳しい記録はほとんど残っていない。
- 大正12年(1923)3月7日 — 吉見百穴が国の史跡に指定される。指定当時の解説は、口を開ける横穴を二百数十個とする。
- 昭和3年(1928)11月30日 — 横穴の一つに生えるヒカリゴケが、吉見百穴ヒカリゴケ発生地として国の天然記念物に指定される。
- 昭和19年(1944)〜昭和20年(1945) — 百穴と周辺の丘陵に、中島飛行機の工場を移すための地下軍需工場が掘られる。本格的な生産の前に終戦となる。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 文化庁の国指定文化財等データベースは、史跡「吉見百穴」の指定年月日を1923年3月7日、管理団体を吉見町と記し、指定当時の解説は口を開ける横穴が二百数十個に及び関東の横穴群で最も著名とする。
- 同データベースは、天然記念物「吉見百穴ヒカリゴケ発生地」の指定年月日を1928年11月30日とし、中部以北の山地でしか知られていなかったヒカリゴケが関東平野に生えることを分布上の著しい事実と記す。
- 吉見町は、明治20年の発掘調査はわずかな写真と出土品を残すのみで、詳しい情報はほとんど残っていないと記す。
- 吉見町は、地下軍需工場の目的を、空襲を避けながら航空機の部品を製造することと記す。
そのため、このページではこうしています
- 読みは、国指定文化財等データベースが「よしみひゃっけつ」、吉見町が「よしみひゃくあな」と記す。
- 吉見町は、点検・調査のため地下軍需工場跡の内部には立ち入りできないと記す。
- ピンは吉見町が記す所在地(大字北吉見324)を示す。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 指定当時に二百数十個とされた横穴が、現在219基と数えられるまでの経緯、とくに地下工場の工事で失われた横穴があるかどうかは、町と文化庁の公開資料では確認できない。
参考・出典
3件出典に基づいて掲載している
- 吉見百穴/ヒカリゴケ
吉見町 - 吉見百穴
文化庁 国指定文化財等データベース(文化遺産オンライン) - 吉見百穴ヒカリゴケ発生地
文化庁 国指定文化財等データベース(文化遺産オンライン)
この場所について
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