道了堂跡(明治7年、鑓水の生糸商人が絹の道の峠に建てたお堂)|何があった場所か
安政6年(1859)に横浜が開港すると、八王子周辺で生産された生糸は八王子宿に集められ、鑓水を通って横浜へ運ばれた。八王子市によれば、この道はかつて神奈川往還または浜街道と呼ばれ、鉄道が発達する明治の中ごろまで輸出用生糸の道の一つだった。生糸の取引で短期間に巨額の富を得た鑓水の商人は鑓水商人と呼ばれ、その一人の八木下要右衛門は見事な石垣の屋敷を構え、鑓水の石垣大尽とも呼ばれた。屋敷跡には平成2年(1990)3月に絹の道資料館が開かれた。
峠の一番高い大塚山には、道を行き交う旅人や村内の安全を祈る道了堂があった。市は、明治7年(1874)に鑓水商人の大塚忢郎吉が中心となり、浅草花川戸から道了尊を勧請して建てたと記す。境内には書院や庫裏が並び、桜が植えられ、山頂からは十二州を見晴らせたといわれる。お堂は取り壊され、跡地は平成2年に大塚山公園として整備された。いまは礎石の跡と灯籠が残る。公園の入口に建つ絹の道碑は、昭和32年(1957)に郷土史家の橋本義夫が建てたもので、絹の道という呼び名はこの碑に由来する。御殿橋のたもとから碑の前までの約1.5キロメートルは市の史跡で、未舗装の部分は平成8年(1996)に文化庁の歴史の道百選に選ばれた。

近くの痕跡
- 滝山城跡(永禄12年、武田信玄の攻撃をしのいだ北条氏照の城)(戦の痕跡・約8.8km)
- 八王子城跡(天正18年、一日で落ちた北条氏照の山城)(戦の痕跡・約8.8km)
- 宮ヶ瀬集落の水没地(宮ヶ瀬ダム・宮ヶ瀬湖底)(水の痕跡・約15.4km)
- 狭山湖(山口貯水池の建設で湖底になった勝楽寺の村)(水の痕跡・約16.9km)
時のながれ
- 安政6年(1859) — 横浜が開港し、八王子宿に集められた生糸が鑓水を通って横浜へ運ばれるようになる。
- 慶応元年(1865) — 鑓水村に、八王子道と刻んだ道標が建てられる。
- 明治7年(1874) — 鑓水商人の大塚忢郎吉が中心となり、浅草花川戸から道了尊を勧請して大塚山に道了堂を建てる。
- 1957年 — 郷土史家の橋本義夫が絹の道碑を建てる。絹の道という呼び名はこの碑に由来する。
- 1990年 — 3月に八木下要右衛門の屋敷跡に絹の道資料館が開館する。道了堂の跡地は大塚山公園として整備される。
- 1996年 — 絹の道の未舗装部分が、文化庁選定の歴史の道百選に選ばれる。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 八王子市は、御殿橋のたもとから絹の道碑の前までの約1.5キロメートルを市の史跡「絹の道」とし、昔の面影をよく残す未舗装部分が文化庁選定の歴史の道百選に選ばれたと記す。
- 八王子市文化財保存活用地域計画は、道了堂を明治7年(1874)に村内の生糸商人の寄付で建てられたとし、浅草花川戸から遷した道了尊や書院・庫裏などの建物が並び、何本もの桜が整えられたと記す。
- 同計画は、慶応元年(1865)に建てられた八王子道の道標が残り、正面に「此方 八王子道」、裏面に「慶応元乙丑 仲秋吉日 武州多摩郡 鑓水村」と刻まれると記す。
- 八王子市は、絹の道資料館の石垣は八木下要右衛門の屋敷のものを生かしたもので、建物は復元ではないと記す。
そのため、このページではこうしています
- 絹の道は国の史跡ではなく、八王子市が指定した史跡である。
- ピンは大塚山公園内の道了堂跡を示す。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 道了堂が取り壊された年と、市の史跡「絹の道」の指定年月日は、八王子市の公開資料では確認できない。
参考・出典
4件出典に基づいて掲載している
この場所について
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