東勝寺跡(1333年・北条一門の最期の地)|何があった場所か
鶴岡八幡宮の南東、滑川を渡った葛西ヶ谷と呼ばれる谷戸に、北条得宗家の氏寺だった東勝寺の跡がある。鎌倉市によると、寺は13世紀中頃に三代執権北条泰時の命で退耕行勇を開山として創建されたと伝わる。元弘3年(1333)、新田義貞らの鎌倉攻めの際、第14代執権北条高時は東勝寺に逃げ込み、一族郎党とともに自害した。文化庁の解説はその日を5月22日とする。ともに自害した人数については、『太平記』が伝える数として一族郎党以下870余人を文化庁の解説が挙げ、鎌倉市も同じ数を記す。寺はのちに再建されて室町時代には関東十刹の第三位に列したが、永正9年(1512)から元亀4年(1573)の間に廃絶したと考えられている。
昭和50年(1975)と平成8〜9年(1996〜1997)の発掘で、石垣や石敷きの道、門跡、礎石建物跡、火災の痕跡、北条氏の紋である三鱗文の瓦が見つかった。平成10年(1998)7月31日に国の史跡に指定されている。遺構は埋め戻されて草地となり、跡地には立ち入れない。鎌倉市は、フェンスの外から中世に造成されたひな壇状の平場の地形が見えると記す。近くには腹切りやぐらと通称されるやぐらがあり、高時らがここで自害したという伝承からその名が付いたとされる。付近は落石と岩盤剥離の危険から立入禁止となっている。

近くの痕跡
- 昇龍橋(社が去ったあとに残された、同じ場所に架かる橋では市内最古)(地の痕跡・約3.8km)
- 堀割川(明治のはじめに人が掘った、根岸湾へ下る運河)(水の痕跡・約12.2km)
- 猿島砲台跡(明治14年に起工した、東京湾要塞の島の砲台)(戦の痕跡・約12.9km)
- 吉野橋(川の埋め立てなどで、同じ型の橋は二つだけになった)(水の痕跡・約13.7km)
時のながれ
- 仁治2年(1241) — 開山の退耕行勇が東勝寺で没する(文化庁の解説)。
- 元弘3年(1333) — 5月22日、新田義貞らの鎌倉攻めの際、北条高時が一族郎党とともに東勝寺で自害したとされる(文化庁の解説)。ともに自害した人数は『太平記』が伝える数で、一族郎党以下870余人という。
- 永正9年(1512) — 古河公方足利政氏が東勝寺の住持を任命した記録が残る。
- 元亀4年(1573) — 東勝寺領が建長寺の僧に与えられた文書が残り、この頃までに廃絶したと考えられる。
- 1975年 — 発掘調査で石垣・石敷きの道・門跡と三鱗文の瓦が出土。
- 1998年 — 7月31日、国の史跡に指定。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 文化庁の国指定文化財等データベースは、東勝寺跡の指定年月日を平成10年7月31日、所在地を鎌倉市小町、管理団体を鎌倉市と記す。解説は、開山の退耕行勇が仁治2年(1241)に東勝寺で没したことを挙げ、正確な創建年代は不詳とする。
- 鎌倉市は、北条高時が一族郎党以下870余人とともに自害したと記す。文化庁の解説も同じ人数を挙げ、『太平記』によるとする。
- 鎌倉市は、宝戒寺の寺伝では東勝寺での死者は東隣の釈迦堂谷に葬られたとされ、同地のやぐら群から大正15年(1926)に刀傷の残る頭蓋骨が、昭和40年(1965)に元弘三年五月二十八日の銘がある五輪塔が出土し、幕府滅亡との関係が指摘されていると記す。
そのため、このページではこうしています
- ピンは跡地の外、史跡の説明板とフェンスがある入口付近の代表点であり、跡地の内部を示すものではない。跡地は立入不可で、鎌倉市はフェンスの外から見るよう案内している。
- 腹切りやぐらという呼び名は伝承にもとづく通称である。付近は立入禁止で、その撮影や掲載の可否は管理者の宝戒寺に確かめるよう鎌倉市は求めている。
- 周辺は住宅地であり、鎌倉市は静かに見学すること、夜間の訪問を控えることを求めている。
現地確認: 未実施
訂正履歴
公開後に内容を改めた箇所を、日付とともに記録している。
- :説明文と時のながれの、北条高時とともに自害した人数の書き方を改めた。以前は「一族郎党以下870余人とともに自害した」と人数を先に書き、拠り所の『太平記』を後ろに置いていたため、確かめられた数のように読めた。人数は『太平記』が伝える数であることを先に示す並びにした。
この場所について
この場所について、いま知っていることを教えてください。