長久手古戦場(天正12年、池田恒興父子と森長可が戦死した主戦場)|何があった場所か
天正12年(1584)、羽柴秀吉と、織田信雄・徳川家康の連合軍が尾張で対峙した小牧・長久手の戦いの主戦場である。長久手市によると、4月6日夜半、池田勝入(恒興)・元助父子と森長可を先頭に、約24,000人の軍勢が家康の拠点の岡崎へ向けて進み始めた。家康はこれを追い、4月9日、長久手で両軍が激しくぶつかった。昼ごろ家康の本営へ突進した長可が銃弾を頭に受けて戦死し、戦闘は午後1時に終わった。勝入は永井直勝に、元助は安藤直次に討たれたと市は記す。勝入49歳、元助26歳、長可は27歳であった。
一帯は昭和14年(1939)9月7日に国の史跡に指定された。指定の名称は「長久手古戦場 附 御旗山 首塚 色金山」である。文化庁のデータベースの解説は、字仏ヶ根に勝入、南の字武蔵塚にその子、さらに西へ約二町に長可の墓地があり、いずれも明和8年(1771)12月に建てられた標があると記す。首塚は大字岩作字元門にあり、宝永3年(1706)4月の石標と明治43年(1910)4月の碑があるとされる。色金山には家康が戦況を見る際に床几の代わりにしたと伝わる三つの石が、御旗山には家康が旗を立てたと伝わる場所がある。池田父子の塚は古戦場公園の中に残り、公園内には令和8年(2026)4月22日に長久手古戦場記念館が開館した。

近くの痕跡
- 龍泉寺(名古屋城の鬼門を鎮護すると伝わる尾張四観音のひとつ)(方位の痕跡・約8.2km)
- 檀渓跡(尾張名所図会に描かれた山崎川の渓谷)(地の痕跡・約9.8km)
- 塩付街道(星崎の塩を信州へ運んだ細い道)(地の痕跡・約10.6km)
- 山崎川の改修跡(鼎小橋とふるさとの川整備区間)(水の痕跡・約10.6km)
時のながれ
- 天正12年(1584)3月 — 秀吉軍と、家康・信雄の連合軍がともに兵を挙げ、小牧で向かい合う。
- 天正12年(1584)4月6日 — 夜半、池田勝入・元助父子と森長可を先頭に、約24,000人の軍勢が岡崎へ向けて進み始める。
- 天正12年(1584)4月9日 — 長久手で両軍が激突する。森長可が昼ごろ戦死し、池田勝入・元助も討たれる。戦闘は午後1時に終わる。
- 宝永3年(1706)4月 — 首塚と記した石標が建てられる。色金山にも御牀机石と記した石標が建てられる。
- 明和8年(1771)12月 — 池田勝入・その子・森長可の墓地に標が建てられる。
- 明治43年(1910)4月 — 首塚碑と、色金山の胡牀石記の碑が建てられる。
- 昭和14年(1939)9月7日 — 「長久手古戦場 附 御旗山 首塚 色金山」として国の史跡に指定される。
- 令和8年(2026)4月22日 — 古戦場公園内に長久手古戦場記念館が開館する。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 文化庁の国指定文化財等データベースは、史跡の指定年月日を1939年9月7日とし、天正12年4月9日に池田信輝(恒興)とその子、森長可らが家康の軍と激戦した地と解説する。
- 長久手市は、池田勝入(恒興)と長男元助、森長可がいずれも長久手で戦死したとし、長可は銃弾を頭に受けて戦死、勝入は永井直勝に、元助は安藤直次に討たれたと記す。
- 長久手市は、岡崎へ向かった秀吉方の軍勢を約24,000人、追撃した家康方を先発隊4,500人と本隊9,300人と記す。
そのため、このページではこうしています
- 史跡は古戦場公園の一帯のほか、首塚・色金山・御旗山を含み、場所が分かれる。ピンは文化庁のデータベースが示す古戦場の代表点で、古戦場公園の南寄りにあたる。首塚はここから北北東へ約1.4キロ離れている。
- 首塚は指定の解説で人家に囲まれた中にあると記される。見学は公開された範囲にとどめたい。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 長久手の戦いで討たれた者の総数を示す数字は、長久手市と文化庁の公開資料では確認できなかった。
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
参考・出典
3件出典に基づいて掲載している
- 長久手古戦場 附 御旗山 首塚 色金山(国指定文化財等データベース)
文化庁 文化遺産オンライン - 長久手古戦場物語
長久手市 - 長久手古戦場記念館がオープンしました(2026年4月22日)
長久手市
この場所について
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