観音崎の砲台跡(明治13年に着工した、東京湾要塞のはじまりの砲台群)|何があった場所か
三浦半島の東端、浦賀水道に突き出た観音崎の丘に、明治の陸軍が築いた砲台の跡が点在する。横須賀市教育委員会の保存活用計画は、東京湾要塞を近代日本で最初に建設された要塞とし、明治13年(1880)起工の観音崎砲台をその嚆矢と記す。同計画によると、この年の4月に観音崎と三軒家を結ぶ新道の開削が始まり、続いて第一・第二砲台の工事に着手した。同計画の一覧表では、第一砲台の起工は明治13年6月5日、第二砲台は同年5月26日で、竣工はどちらも明治17年6月27日である。
観音崎砲台は第一から第四砲台と南門砲台などからなり、第一砲台に24センチ加農砲2門、第二砲台に同じく6門が備えられた。富津岬との間の海峡より手前の海面を守る砲台群の中核で、沖の猿島砲台とも連携した。横須賀市によると、一帯は明治から砲台が築かれて軍の要塞となり、昭和20年(1945)8月15日の終戦まで一般の人は立ち入れなかった。昭和50年(1975)に広さ70.4ヘクタールの県立観音崎公園となり、園内には北門第一砲台跡、北門第二砲台跡、三軒家砲台跡などが残る。

近くの痕跡
- 猿島砲台跡(明治14年に起工した、東京湾要塞の島の砲台)(戦の痕跡・約5.8km)
- 昇龍橋(社が去ったあとに残された、同じ場所に架かる橋では市内最古)(地の痕跡・約18.1km)
- 東勝寺跡(1333年・北条一門の最期の地)(死の痕跡・約18.3km)
- 堀割川(明治のはじめに人が掘った、根岸湾へ下る運河)(水の痕跡・約20.7km)
時のながれ
- 明治9年(1876) — 12月、観音崎砲台の建設予定地の一部を陸軍省予算で買収。
- 明治13年(1880) — 4月に観音崎と三軒家を結ぶ新道の開削を開始。5月26日に第二砲台、6月5日に第一砲台を起工。
- 明治17年(1884) — 6月27日、第一・第二砲台が竣工。
- 1945年 — 8月15日の終戦まで、一帯は一般の人の立入禁止。
- 1975年 — 県立観音崎公園として開園。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 横須賀市教育委員会の保存活用計画(平成29年3月)は、明治9年(1876)12月に観音崎砲台の建設予定地の一部が買収され、日本の要塞建設の嚆矢となる砲台建設事業が着手されたと記す。同計画の一覧表は、第一・第二砲台の起工を明治13年(1880)、竣工をともに明治17年(1884)6月27日とする。
- 同計画は、観音崎砲台を西岸の沿岸砲台の中核とし、富津と観音崎の間の海峡に至るまでの前方海面の防衛を主な任務としたと記す。
- 横須賀市は、一帯が戦争の終わるまで一般の人の立入禁止であったと記す。
そのため、このページではこうしています
- ピンは北門第一砲台跡の代表点である。公園の案内図では、この砲台跡は観音埼灯台の南西側の丘にある。砲台跡は公園内の広い範囲に散らばっており、一点で全体を示すものではない。
- 観音崎の砲台群は国の史跡には含まれていない。国史跡の東京湾要塞跡は猿島砲台跡と千代ヶ崎砲台跡の2か所である。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 公園の案内が使う北門第一砲台・北門第二砲台という呼び名と、保存活用計画の一覧表の第一砲台・第二砲台とを直接対応づける記述は、確認した公的資料には見あたらない。
- 日本で最初の西洋式砲台とする紹介が観光案内などに見られるが、横須賀市教育委員会の計画の表現は、日本の要塞建設の嚆矢、東京湾要塞の嚆矢というものである。
参考・出典
4件出典に基づいて掲載している
- 史跡東京湾要塞跡 猿島砲台跡 千代ヶ崎砲台跡 保存活用計画 第1章~第2章
横須賀市教育委員会(平成29年3月) - 5.県立観音崎公園(浦賀の歴史とふれあう散策ルート3)
横須賀市 - 観音崎公園 公園について
神奈川県公園協会・京急サービス共同事業体(指定管理者) - 観音崎公園 園内マップ・施設
神奈川県公園協会・京急サービス共同事業体(指定管理者)
この場所について
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