多摩湖(村山貯水池の建設で湖底になった宅部の谷の村)|何があった場所か
東大和市の多摩湖は東京都水道局の村山貯水池の通称で、狭山丘陵の谷を利用したアースダム形式の貯水池である。西側の村山上貯水池は大正13年(1924)3月、東側の村山下貯水池は昭和2年(1927)3月にしゅん工した。東大和市によれば、東京市が明治45年(1912)に狭山丘陵への貯水池建設を決め、大正時代に入ると谷あいの土地が次々と買収されていった。
湖底になったのは、宅部川が西から東へ流れる谷の集落である。多摩湖町自治会のサイトに載る地域の広報紙『ふれあいたまこ』第56号(令和3年9月)の連載によると、移転時の戸数は上宅部42戸、中田5戸、林12戸、杉本8戸、内堀38戸、荒ヶ谷10戸、石川46戸の計161戸で、ほかに下の堰堤の下になった東村山側が23戸あった。同じ記事は、谷にあった神社・寺・堂・道・橋の名も挙げている。東大和市の案内冊子は、三光院がもとは下貯水池の取水塔付近にあり、工事により大正12年(1923)に現在地へ移ったと記す。昭和51年(1976)に水が抜かれた際の発掘では、約2万年前の石器が見つかった。

近くの痕跡
- 狭山湖(山口貯水池の建設で湖底になった勝楽寺の村)(水の痕跡・約3.7km)
- 滝山城跡(永禄12年、武田信玄の攻撃をしのいだ北条氏照の城)(戦の痕跡・約11.9km)
- 石神井城跡と三宝寺池(文明9年、太田道灌に攻め落とされた豊島氏の城)(戦の痕跡・約14.5km)
- 道了堂跡(明治7年、鑓水の生糸商人が絹の道の峠に建てたお堂)(地の痕跡・約17.2km)
時のながれ
- 1912年 — 東京市が狭山丘陵への貯水池建設を決める。
- 1919年 — 周辺の6村が合併して大和村となる。
- 1923年 — 三光院が貯水池の工事により下貯水池の取水塔付近から現在地へ移る。
- 1924年 — 3月、村山上貯水池がしゅん工する。
- 1927年 — 3月、村山下貯水池がしゅん工する。
- 1976年 — 早春に水が抜かれ、多摩湖遺跡群の発掘で約2万年前の石器が見つかる。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 東京都水道局は、村山上貯水池のしゅん工を大正13年3月、村山下貯水池を昭和2年3月と記す。東大和市は、大正時代に谷あいの土地が次々と買収されたこと、昭和51年に水が抜かれた際の発掘で約2万年前の石器が見つかったことを記す。
- 東大和市の案内冊子は、三光院が村山貯水池の工事により大正12年に下貯水池の取水塔付近から現在地へ移転したと記す。
- 多摩湖町自治会のサイトに転載された広報紙『ふれあいたまこ』第56号(令和3年9月)の連載記事は、移転時の戸数を七つの集落ごとに挙げて計161戸とし、ほかに下の堰堤の下になった東村山分が23戸あったと記す。
そのため、このページではこうしています
- 市が昭和2年を完成の年とするのは下貯水池のしゅん工にあたり、上貯水池はそれより早い大正13年にしゅん工している。ピンは水道局が村山下貯水池の所在地とする多摩湖四丁目644番地の代表点。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 移転した家の数は、東大和市と東京都水道局の公開資料では確認できていない。戸数は地域の広報紙の連載記事による。
- 同じ連載の第55号(令和3年3月)の記事は、湖底となった谷地に民家162戸が点在していたと記し、第56号の計161戸と1戸違う。数えた範囲や時点が同じかどうかは、記事からは分からない。
参考・出典
4件出典に基づいて掲載している
- 市の歴史
東大和市 - 東大和市の魅力=歴史と自然(PDF)
東大和市 - 村山・山口貯水池(多摩湖・狭山湖)
東京都水道局 - 多摩湖町を歩いてみる(多摩湖町自治会)
多摩湖町自治会
この場所について
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