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関ヶ原古戦場と東西の首塚(1600年の決戦地と、首を葬った二つの塚)|何があった場所か

史実として広く知られているが、当プロジェクトとしては一次資料での検証が未完了の情報です。
位置精度: 地点特定 / 最終確認日: 2026-09-28

慶長5年(1600)9月15日、石田三成の率いる約8万5千の西軍と、徳川家康の率いる約7万5千の東軍が、関ケ原でぶつかった。岐阜県はこの兵数を示したうえで、国の史跡に指定された範囲を開戦地・決戦地・家康の最初と最後の陣地・三成の陣地・岡山烽火場・大谷吉隆墓・東首塚・西首塚の9か所、総面積約245,889平方メートルと記す。指定は昭和6年(1931)3月30日である。決戦地は笹尾山の下一帯で、午後2時頃にこの付近で石田隊が敗れ、戦闘の決着がついたと伝わる。

関ケ原町の計画書によれば、合戦の翌日、この地の領主だった竹中重門が家康の命を受けて戦死者を埋葬し、その埋葬地が現在の東首塚と西首塚である。岐阜県は首塚を戦死者の首級を埋めた場所と記す。指定当時の解説は、東首塚を関ヶ原駅の西北五町にある周囲五間・高さ五尺の円塚、西首塚を駅の西五町にある一小塚とし、西首塚の上には三本の老檜、前には小さな観音堂が二つあったと書く。寛政5年(1793)には地域の住民が西首塚に観音堂や五輪塔を建てた。関ケ原観光協会は、西首塚が胴塚とも呼ばれ、東海道本線を敷いた際に埋葬されていた白骨が大量に出たと記す。

関ヶ原古戦場と東西の首塚(1600年の決戦地と、首を葬った二つの塚)の位置を示す地図
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