猿島砲台跡(明治14年に起工した、東京湾要塞の島の砲台)|何があった場所か
横須賀新港の沖合1.7キロメートルに浮かぶ猿島に、明治の陸軍が築いた砲台の跡が残る。文化庁の国指定文化財等データベースは、猿島砲台跡を明治14年(1881)11月に起工し、同17年6月に竣工した東京湾要塞の最初期の砲台とする。横須賀市は起工を11月5日、竣工を6月30日と記し、第一砲台に27センチ加農砲2門、第二砲台に24センチ加農砲4門などが備えられたとする。任務は東京湾内湾への敵艦船の侵入を阻み、横須賀と長浦の両軍港を守ることだった。
島内には砲座、砲側の弾薬庫、兵が待機する掩蔽部、砲台どうしを結ぶ煉瓦造の隧道、電気灯機関舎、布積みの護岸などが残る。横須賀市によると、弾薬庫などの煉瓦はフランス積で、のちに増設された観測所などはオランダ積であり、一つの遺跡で二つの積み方が見られる。関東大震災で被災したのち大正14年(1925)に除籍された。平成27年(2015)3月10日、浦賀湾口の千代ヶ崎砲台跡とあわせて東京湾要塞跡の名で国の史跡に指定され、横須賀市はこれを軍事遺跡として日本で初めての国史跡と記す。島は市の猿島公園として公開されている。

近くの痕跡
- 観音崎の砲台跡(明治13年に着工した、東京湾要塞のはじまりの砲台群)(戦の痕跡・約5.8km)
- 昇龍橋(社が去ったあとに残された、同じ場所に架かる橋では市内最古)(地の痕跡・約12.3km)
- 東勝寺跡(1333年・北条一門の最期の地)(死の痕跡・約12.9km)
- 堀割川(明治のはじめに人が掘った、根岸湾へ下る運河)(水の痕跡・約15.5km)
時のながれ
- 弘化4年(1847) — 猿島に3か所の台場が築かれる(横須賀市教育委員会の保存活用計画)。
- 明治14年(1881) — 11月5日、猿島砲台を起工。
- 明治17年(1884) — 6月30日、猿島砲台が竣工。
- 大正14年(1925) — 関東大震災の被災を経て除籍され、跡地は海軍に移管。
- 平成27年(2015) — 3月10日、千代ヶ崎砲台跡とともに国の史跡「東京湾要塞跡」に指定。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 文化庁の国指定文化財等データベースは、東京湾要塞跡 猿島砲台跡 千代ヶ崎砲台跡の指定年月日を平成27年3月10日とし、猿島砲台跡を明治14年(1881)11月起工、同17年6月竣工の要塞最初期の砲台と記す。
- 横須賀市は起工を明治14年11月5日、竣工を明治17年6月30日と日付まで記す。横須賀市教育委員会の保存活用計画(平成29年3月)も同じ日付を挙げ、猿島砲台を観音崎砲台に次いで作られた最初期の砲台とし、富津岬と観音崎の間の海峡を守る砲台群や海堡と連携したと記す。
- 同計画は、弘化4年(1847)に猿島に3か所の台場が築かれたとし、明治の砲台はそのとき造成された標高約40メートルの頂上平坦部を利用したと記す。関東大震災で被災し、大正14年(1925)に除籍、跡地は海軍に移管されたとする。
そのため、このページではこうしています
- ピンは横須賀市の史跡紹介ページの地図が示す島の中央部の地点である。同じ国史跡のもう一つの構成地である千代ヶ崎砲台跡は、浦賀湾口の南岸にある別の場所である。
- 猿島公園は入園料と渡船の料金がかかり、運航や公開の条件は横須賀市と指定管理者の案内で確かめたい。
現地確認: 未実施
参考・出典
5件出典に基づいて掲載している
- 東京湾要塞跡 猿島砲台跡 千代ヶ崎砲台跡
文化庁(文化遺産オンライン・国指定文化財等データベース) - 東京湾要塞跡(猿島砲台跡)
横須賀市 - 国史跡東京湾要塞跡
横須賀市 - 史跡東京湾要塞跡 猿島砲台跡 千代ヶ崎砲台跡 保存活用計画 第1章~第2章
横須賀市教育委員会(平成29年3月) - 猿島公園
横須賀市
この場所について
この場所について、いま知っていることを教えてください。