石神井城跡と三宝寺池(文明9年、太田道灌に攻め落とされた豊島氏の城)|何があった場所か
練馬区石神井台の都立石神井公園で、三宝寺池と南の石神井川の谷とに挟まれた台地に、豊島氏の城館だった石神井城の跡がある。東京都教育委員会の資料は、豊島氏が鎌倉時代末期ごろから室町時代にかけて武蔵国豊島郡を中心に勢力をもち、石神井の地域も支配していたと記す。練馬区によれば、文明9年(1477)、豊島勘解由左衛門尉が城主のときに太田道灌に攻め落とされ、以後は廃城となった。城の中心にあたる内郭の土塁と空堀が今も残る。
城跡は大正8年(1919)に三宝寺池とともに旧跡に指定され、平成23年(2011)6月9日に都の史跡へ種別が変わった。平成10年の発掘では空堀が見つかり、平成12年の調査では土塁の盛土の下層から鉄製の小刀が出ている。北の三宝寺池は武蔵野三大湧水池のひとつに数えられた池で、浮島の沼沢植物群落は昭和10年(1935)12月に国の天然記念物に指定された。いまは湧き水が減り、井戸から汲み上げた地下水で池を満たしている。池のほとりには殿塚と姫塚があり、道灌の軍勢に追われた当主の泰経が白馬で池に沈み、娘の照姫もあとを追ったと伝わる。

近くの痕跡
- 「池袋」地名の由来(丸池・元池袋史跡公園)(地の痕跡・約10.2km)
- 巣鴨プリズン跡(東池袋中央公園)(死の痕跡・約11.1km)
- 旧岩淵水門(荒川放水路と隅田川を分けた大正の赤い水門)(水の痕跡・約13.4km)
- 多摩湖(村山貯水池の建設で湖底になった宅部の谷の村)(水の痕跡・約14.5km)
時のながれ
- 文明9年(1477) — 豊島勘解由左衛門尉が城主のとき、太田道灌に攻め落とされ、以後廃城となる。
- 1919年 — 三宝寺池とともに旧跡に指定される。
- 1935年 — 三宝寺池沼沢植物群落が国の天然記念物に指定される。
- 1957年 — 東京都が城跡の発掘調査を行う。
- 1959年 — 都立石神井公園が開園する。
- 1998年 — 練馬区教育委員会の調査で空堀が発掘される。
- 2011年 — 6月9日、旧跡から都の史跡へ種別が変わる。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 練馬区は、文明9年(1477)に豊島勘解由左衛門尉が城主のとき太田道灌に攻め落とされ、以後廃城となったこと、平成23年6月9日に都指定の旧跡から史跡へ種別変更されたこと、所在地が都立石神井公園(石神井台1丁目18番)であることを記す。
- 東京都教育委員会の資料は、大正8年(1919)に三宝寺池とともに旧跡に指定されたこと、昭和32年に都が発掘調査を行ったことを記す。三宝寺池沼沢植物群落の天然記念物指定は、国指定文化財等データベースで1935年12月24日と確認できる。
そのため、このページではこうしています
- ピンは練馬区が城跡の所在地とする石神井台1丁目18番の代表点。東京都公園協会によれば、城跡は通常、文化財保護のため閉鎖されている。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 照姫と殿塚・姫塚の話は、東京都公園協会が豊島一族の最後を語る伝説のひとつとして紹介するもので、練馬区と東京都教育委員会の文化財の解説には照姫についての記述がない。照姫の実在を示す同時代の記録は確認できていない。
参考・出典
5件出典に基づいて掲載している
- 石神井城跡(しゃくじいじょうあと)
練馬区 - わがまちの文化財(練馬区)石神井城跡と三宝寺池沼沢植物群落
東京都教育委員会(東京都生涯学習情報) - 石神井公園
東京都公園協会 - 三宝寺池沼沢植物群落(文化遺産オンライン)
文化庁 - 三宝寺池沼沢植物群落(さんぽうじいけしょうたくしょくぶつぐんらく)
練馬区
この場所について
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