新富士見川の跡(八年で消えた先代の川と、跡地の富士見川公園)|何があった場所か
横浜市中区に、富士見川公園という街区公園がある。横浜市の都市公園一覧は、この公園を中区の街区公園とし、所在地を末吉町四丁目、面積を2,498平方メートル、公開年月日を昭和49年(1974年)12月14日とする。横浜市道路局河川企画課の「川のはなし」第七稿は、消えた河川の跡地を挙げるなかで、この富士見川公園を新富士見川の跡とする。同じ資料は、伊勢佐木町の一帯で明治から昭和にかけて埋め立てられて消えた八つの河川の一つに新富士見川を数え、その前に同じ一帯にあった富士見川も八つのうちに挙げる。
同じ第七稿は、開削と埋立の変遷を年ごとに並べた図で、明治19年(1886年)に富士見川の開削が完了し、明治27年(1894年)に富士見川の埋立が完了し、明治30年(1897年)に新富士見川の開削が完了し、昭和45年(1970年)に新富士見川・吉田川・新吉田川の埋立が完了したとする。開削と埋立の理由をまとめた表は、富士見川の開削の理由を舟路の開拓、埋立の理由を新富士見川の開削の代替とし、新富士見川の開削の理由も舟路の開拓、埋立の理由を舟路の停止と新たな都市の基盤整備とする。ただし同じ表は新富士見川の埋立の時期を1897年とし、変遷の図は昭和45年(1970年)とする。一つの資料のなかで七十三年の開きがある。
富士見川という名の川は、掘られてから八年のちに埋められたことになる。三年おいて、新富士見川が掘られた。その新富士見川が埋められたあとの跡地に開かれたのが、富士見川公園である。公園の名が二つの川のどちらから来たのかを説明した資料には行き当たらなかった。川が消えて四年のちに開かれた公園である。同じ第七稿が消えた河川の跡地として名を挙げる公園は、大通り公園・日ノ出川公園・富士見川公園の三つである。
なぜ川が要らなくなったのかも、同じ第七稿が記す。明治のころ、横浜では人口増加や都市化によって物流が増大し、舟運が必要となったため河川の開削が盛んに行われたが、明治37年(1904年)に初の路面電車の運営が開始されると舟路の需要に陰りが見え始めた。大正12年(1923年)の関東大震災を受けた横濱復興計画案では新吉田川を埋築して街路を作る計画が組まれ、終戦後の昭和21年(1946年)には横浜大空襲の残骸や瓦礫の投棄処分箇所として桜川や日ノ出川が指定された。高度経済成長期には工場から排出された汚水や汚物等によって河川が汚染され、景観上や衛生上からもマイナスであるとされて、埋め立てと新たな都市の基盤整備が行われることになったという。公園は住宅と商店に囲まれた生活の場なので、遊んでいる人のじゃまにならないよう静かに歩きたい。

近くの痕跡
- 平和祈念碑(横浜大空襲と同じ5月29日に、大通り公園へ建てられた)(戦の痕跡・約380m)
- お三の宮日枝神社(入海を釣鐘の形に埋めた吉田新田と、震災で焼け残った本殿)(水の痕跡・約632m)
- 浦舟水道橋(二度場所を移して、まだ渡っている鉄の骨組み)(水の痕跡・約690m)
- 吉野橋(川の埋め立てなどで、同じ型の橋は二つだけになった)(水の痕跡・約726m)
時のながれ
- 1886年(明治19年) — 富士見川の開削が完了する。理由は舟路の開拓。
- 1894年(明治27年) — 富士見川の埋立が完了する。理由は新富士見川の開削の代替。
- 1897年(明治30年) — 新富士見川の開削が完了する。理由は舟路の開拓。
- 1904年(明治37年) — 初の路面電車の運営が開始され、横浜の舟路の需要に陰りが見え始める。
- 1946年(昭和21年) — 横浜大空襲の残骸や瓦礫の投棄処分箇所として、桜川や日ノ出川が指定される。
- 1970年(昭和45年) — 新富士見川・吉田川・新吉田川の埋立が完了する。
- 1974年(昭和49年) — 12月14日、跡地に富士見川公園が開かれる。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 横浜市道路局河川企画課の「川のはなし」第七稿(令和2年11月)は、消えた河川の今として跡地を挙げるなかで、富士見川公園を新富士見川の跡とする。
- 同じ資料は、いまの伊勢佐木町が中村川と大岡川に挟まれたエリアであるとしたうえで、かつて小松川・派大岡川・吉田川・新吉田川・新富士見川・富士見川・日ノ出川・桜川の8つの河川が存在し、明治5年(1872年)から昭和52年(1977年)の間に埋め立てられて消滅し、現存しているのは大岡川・掘割川・中村川・堀川と4河川のみとなっていると記す。
- 同じ資料の開削と埋立の変遷を年ごとに並べた図は、明治19年(1886年)に富士見川の開削が完了し、明治27年(1894年)に富士見川の埋立が完了し、明治30年(1897年)に新富士見川の開削が完了し、昭和45年(1970年)に新富士見川・吉田川・新吉田川の埋立が完了したとする。
- 同じ資料の開削と埋立の理由をまとめた表は、富士見川の開削を1886年で理由を舟路の開拓、埋立を1894年で理由を新富士見川の開削の代替とし、新富士見川の開削を1897年で理由を舟路の開拓、埋立の理由を舟路の停止と新たな都市の基盤整備とする。
- 同じ資料は、明治のころ横浜では人口増加や都市化によって物流が増大して舟運が必要となり河川の開削が盛んに行われたこと、明治37年(1904年)に初の路面電車の運営が開始されると横浜の舟路の需要に陰りが見え始めたこと、大正12年(1923年)の関東大震災を受けた横濱復興計画案では新吉田川を埋築して街路を作る計画が組まれていたこと、終戦後の昭和21年(1946年)には横浜大空襲の残骸や瓦礫の投棄処分箇所として桜川や日ノ出川が指定されていたことを記す。
- 同じ資料は、高度経済成長期に工場から排出された汚水や汚物等によって河川が汚染されたことから、景観上や衛生上からもマイナスであるとされ、これらを埋め立てて新たな都市の基盤整備が行われることになったと記す。
- 横浜市の都市公園一覧表(令和8年3月31日現在)は、富士見川公園を中区の街区公園とし、所在地を末吉町4丁目、面積を2,498平方メートル、公開年月日を昭和49年12月14日とする。
そのため、このページではこうしています
- 新富士見川の埋立の年は、変遷の図が示す昭和45年(1970年)を採った。表のほうは開削と埋立が同じ年になっており、跡地の富士見川公園が昭和49年に公開されていることとも合うためである。
- 座標は富士見川公園の地図上の位置に置いた。新富士見川は線状に延びていたので、地点は跡地の一点を示すものである。
- 消えた八河川のうち、吉田川と新吉田川の跡は大通り公園、日ノ出川の跡は日ノ出川公園、桜川の跡は桜川新道、派大岡川の跡は関内と関外の境として、この地図に別の地点がある。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 新富士見川と富士見川の延長や川幅を示す横浜市の資料には行き当たらなかった。
- 富士見川公園という公園の名が、先に消えた富士見川と、跡地となった新富士見川のどちらから来ているのかを説明する資料にも行き当たらなかった。
- 新富士見川がいつ埋め立てられたのかが、同じ第七稿のなかで割れている。開削と埋立の理由をまとめた表は埋立の時期を1897年とするが、開削と埋立の変遷を年ごとに並べた図は昭和45年(1970年)に新富士見川・吉田川・新吉田川の埋立が完了したとする。表は同じ行で開削も1897年としており、開削と埋立が同じ年になる。
- 新吉田川についても同じ形の食い違いがある。表は開削を1896年、埋立も1896年とするが、変遷の図は埋立の完了を昭和45年(1970年)とする。
参考・出典
4件出典に基づいて掲載している
- 川のはなし 第七稿 大岡川(新田開発と河川改修の歴史)(VOL.7 令和2年11月)
横浜市道路局河川企画課 - 川のはなし
横浜市下水道河川局 - 公園 横浜市の都市公園 データ集
横浜市みどり環境局公園緑地部公園緑地管理課 - 横浜市の公園一覧表(令和8年3月31日現在)中区(エクセル)
横浜市みどり環境局公園緑地部公園緑地管理課
訂正履歴
公開後に内容を改めた箇所を、日付とともに記録している。
- :見出しと要約で、富士見川の名が新富士見川を経て公園の名に受け継がれたと書いていたのを改めた。公園の名がどちらの川から来たのかを説明した資料が無いため。
- :公園の面積と公開年月日の出どころとして、横浜市の公園一覧表(中区)を出典に加え、一覧のページの発行元を所管の課の名前にした。
この場所について
この場所について、いま知っていることを教えてください。