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新富士見川の跡(八年で消えた先代の川と、跡地の富士見川公園)|何があった場所か

自治体史・公的アーカイブ・碑文や現地の掲示など、一次資料で内容を確認済みの情報です。
位置精度: 地点特定 / 最終確認日: 2026-09-21

横浜市中区に、富士見川公園という街区公園がある。横浜市の都市公園一覧は、この公園を中区の街区公園とし、所在地を末吉町四丁目、面積を2,498平方メートル、公開年月日を昭和49年(1974年)12月14日とする。横浜市道路局河川企画課の「川のはなし」第七稿は、消えた河川の跡地を挙げるなかで、この富士見川公園を新富士見川の跡とする。同じ資料は、伊勢佐木町の一帯で明治から昭和にかけて埋め立てられて消えた八つの河川の一つに新富士見川を数え、その前に同じ一帯にあった富士見川も八つのうちに挙げる。

同じ第七稿は、開削と埋立の変遷を年ごとに並べた図で、明治19年(1886年)に富士見川の開削が完了し、明治27年(1894年)に富士見川の埋立が完了し、明治30年(1897年)に新富士見川の開削が完了し、昭和45年(1970年)に新富士見川・吉田川・新吉田川の埋立が完了したとする。開削と埋立の理由をまとめた表は、富士見川の開削の理由を舟路の開拓、埋立の理由を新富士見川の開削の代替とし、新富士見川の開削の理由も舟路の開拓、埋立の理由を舟路の停止と新たな都市の基盤整備とする。ただし同じ表は新富士見川の埋立の時期を1897年とし、変遷の図は昭和45年(1970年)とする。一つの資料のなかで七十三年の開きがある。

富士見川という名の川は、掘られてから八年のちに埋められたことになる。三年おいて、新富士見川が掘られた。その新富士見川が埋められたあとの跡地に開かれたのが、富士見川公園である。公園の名が二つの川のどちらから来たのかを説明した資料には行き当たらなかった。川が消えて四年のちに開かれた公園である。同じ第七稿が消えた河川の跡地として名を挙げる公園は、大通り公園・日ノ出川公園・富士見川公園の三つである。

なぜ川が要らなくなったのかも、同じ第七稿が記す。明治のころ、横浜では人口増加や都市化によって物流が増大し、舟運が必要となったため河川の開削が盛んに行われたが、明治37年(1904年)に初の路面電車の運営が開始されると舟路の需要に陰りが見え始めた。大正12年(1923年)の関東大震災を受けた横濱復興計画案では新吉田川を埋築して街路を作る計画が組まれ、終戦後の昭和21年(1946年)には横浜大空襲の残骸や瓦礫の投棄処分箇所として桜川や日ノ出川が指定された。高度経済成長期には工場から排出された汚水や汚物等によって河川が汚染され、景観上や衛生上からもマイナスであるとされて、埋め立てと新たな都市の基盤整備が行われることになったという。公園は住宅と商店に囲まれた生活の場なので、遊んでいる人のじゃまにならないよう静かに歩きたい。

新富士見川の跡(八年で消えた先代の川と、跡地の富士見川公園)の位置を示す地図
この地点の地図(地理院タイルに地点を加筆)

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