港橋(川も先代の橋も消えて、花の紋章が残った)|何があった場所か
横浜市中区、みなと大通りが首都高速道路をまたぐあたりに、港橋という短い人道橋が架かっている。横浜市道路局橋梁課の「はしのはなし」第一稿(平成30年11月)は、港橋を市庁舎から一番近くにある横浜市が管理する橋としたうえで、橋と連続して橋ではない車道部があるため、日ごろここを利用していても橋があることに気づくのは難しいと記す。
同じ資料は、港橋が初めて架けられた年月や構造形式は明らかになっていないとしたうえで、古地図から推定すると1877年(明治10年)までに派大岡川へ架けられたと考えられるとする。1864年の横濱明細全圖には見えず、1877年の改正横濱案内繪圖には現れるという。その後1893年(明治26年)に架け替えが行われ、三角形を基本構造とするプラット・トラス橋になった。設計は神奈川県の技師であった野口嘉茂で、ほかに西の橋と吉浜橋も担当していたようだという。野口が設計した西の橋のトラス材は、いまは南区の浦舟水道橋に再利用されている。
1923年(大正12年)9月1日の関東大震災では橋梁を含む多くの土木施設が崩壊し、その後の復興事業で多くの橋が架け替えられたが、港橋は修繕のみで架け替えられなかった。1945年(昭和20年)5月29日の横浜大空襲でも、鉄筋コンクリートや鋼製の震災復興橋梁の多くは焼失することはなかったと考えられるという。戦後の連合国軍による接収に伴っても、港橋が架け替えられることはなかった。橋を消したのは、災害でも戦争でもなかった。1965年(昭和40年)に策定された横浜市六大事業のうち高速道路網計画が派大岡川を利用することが決まり、川は廃止され、トラスの港橋も撤去された。同じ資料は、取り壊される港橋の写真を1973年(昭和48年)6月のものとする。
いまの港橋は、1982年(昭和57年)に首都高速の建設にともなって架け替えられた人道橋である。同じ資料は、派大岡川に架かっていたほかの橋梁は港橋を残してもうない、と記す。高欄には港橋・みなとはしと書かれた橋名板と、花の紋章が四枚ついている。この紋章は、トラス橋であった港橋の鋼材の一部だという。資料が発行された平成30年11月の時点で、橋自体は36歳、花の紋章は125歳だと同じ資料は記す。交通量の多い場所なので、車道に出ず、歩道から眺めたい。

近くの痕跡
- 日ノ出川の跡(吉田川と中村川を結んだ運河と、名を継いだ公園)(水の痕跡・約383m)
- 派大岡川の跡(関内と関外を分けた川と、その上に重なった高速道路)(水の痕跡・約451m)
- 旧居留地消防隊地下貯水槽(日本大通の地下に残る煉瓦の水がめ)(水の痕跡・約579m)
- 吉田川・新吉田川の跡(大通り公園と、橋の名を集めた陶板)(水の痕跡・約630m)
時のながれ
- 1877年(明治10年)まで — 古地図からの推定で、派大岡川に港橋が架けられる。
- 1893年(明治26年) — プラット・トラス橋に架け替えられる。設計は神奈川県の技師であった野口嘉茂。
- 1923年(大正12年) — 関東大震災。多くの橋が架け替えられるなか、港橋は修繕のみで済む。
- 1945年(昭和20年) — 5月29日の横浜大空襲。鋼製や鉄筋コンクリートの震災復興橋梁の多くは焼失しなかったと考えられている。
- 1952年(昭和27年) — 11月、関内地区の接収が解除される。
- 1965年(昭和40年) — 横浜市六大事業が策定される。資料は、その高速道路網計画が派大岡川を利用することに決まったことで川が廃止されたと記し、廃止の年は示さない。
- 1973年(昭和48年) — 6月、トラスの港橋が取り壊される。
- 1982年(昭和57年) — 首都高速の建設にともない、いまの人道橋に架け替えられる。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 横浜市道路局橋梁課の「はしのはなし」第一稿(VOL.1 平成30年11月)は、港橋が横浜公園と横浜市庁舎の間の通りを進み、首都高速横羽線と交差するところに架かっているとし、人道橋であること、港橋と連続して橋ではない車道部があるため日ごろ利用していても橋があることに気づくのは難しいことを記す。
- 同じ資料は、港橋が初めて架けられた年月や構造形式は明らかになっていないとしたうえで、古地図から推定すると1877年(明治10年)までに派大岡川に架けられたと考えられるとし、1864年の横濱明細全圖には無い港橋が1877年の改正横濱案内繪圖にはあることを図で示す。
- 同じ資料は、1893年(明治26年)に架け替えが行われ、橋の形式は三角形を基本構造としたプラット・トラス橋であったとし、設計を神奈川県の技師であった野口嘉茂とする。野口は西の橋と吉浜橋も担当していたようだとする。
- 同じ資料は、野口が設計した西の橋のトラス材が、現在は南区の浦舟水道橋に再利用されていると記す。
- 同じ資料は、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災により橋梁を含む多くの土木施設が崩壊し、その後の復興事業で多くの橋は架け替えられたが、港橋は修繕のみで架け替えられなかったと記す。
- 同じ資料は、1945年(昭和20年)5月29日の横浜大空襲により多くの木造家屋が焼失したが、鉄筋コンクリート・鋼製の震災復興橋梁の多くは焼失することはなかったと考えられるとし、戦後の連合国軍による接収に伴って港橋が架け替えられることはなかったと記す。
- 同じ資料は、関内地区が1952年(昭和27年)11月に接収解除となったこと、1964年(昭和39年)5月に国鉄根岸線の関内駅が開業したこと、1965年(昭和40年)に策定された横浜市六大事業のうち高速道路網計画が派大岡川を利用することが決まったことで派大岡川が廃止となり、トラスの港橋も撤去されたことを記す。取り壊される港橋の写真を1973年(昭和48年)6月のものとする。
- 同じ資料は、現在の港橋が1982年(昭和57年)に首都高速建設に伴い架け替えられた人道橋であり、派大岡川に架かっていたほかの橋梁は港橋を残してもうないと記す。
- 同じ資料は、高欄に港橋・みなとはしと書かれた橋名板と花の紋章4枚がついており、この紋章がトラス橋であった港橋の鋼材の一部であるとしたうえで、橋自体は36歳、花の紋章は125歳だと記す。
- 同じ資料は、昭和14年(1939)頃に港橋から横浜公園方面を写した写真に、橋門構(写真上部)の鋼材部が残されているという説明を添える。
そのため、このページではこうしています
- 二つの資料の食い違いは、川に架かっていた先代のトラス橋と、川が無くなったあとに架け替えられた現在の人道橋とを、同じ橋として数えるかどうかの違いとみて、両方の記述を並べた。
- 座標は、横浜市の資料が記す位置の説明にしたがい、みなと大通りが首都高速道路と交差する地点に置いた。
- 橋の年齢と花の紋章の年齢の数値は、資料が発行された平成30年11月の時点のものである。
- 同じ川の跡として、吉田橋のあたりに派大岡川の跡という別の地点をこの地図に置いている。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- いまの港橋の橋長や幅員などの諸元を示す横浜市の資料には行き当たらなかった。
- 高欄の花の紋章が何の花をかたどったものかを示す記述も、横浜市の資料の中では見つからなかった。
- 派大岡川に架かっていた橋の数え方が、横浜市の資料のあいだで割れている。横浜市道路局河川企画課の「川のはなし」第八稿は、派大岡川に架かっていた橋として港橋・花園橋・吉浜橋・豊国橋・吉田橋・柳橋を図に挙げ、凡例でいずれも廃橋とする。一方、橋梁課の「はしのはなし」第一稿は、1982年に架け替えられた港橋がいまも架かっているとする。
参考・出典
3件出典に基づいて掲載している
- はしのはなし 第一稿 港橋ものがたり(VOL.1 平成30年11月)
横浜市道路局橋梁課 - はしのはなし
横浜市道路・交通政策局建設部橋梁課 - 川のはなし 第八稿 大岡川(桜川と派大岡川の歴史)(VOL.8 令和3年2月)
横浜市道路局河川企画課
訂正履歴
公開後に内容を改めた箇所を、日付とともに記録している。
- :見出しの「花の紋章だけが残った」を「花の紋章が残った」に改めた。資料は紋章が残ったことは書くが、残ったのが紋章だけだとは書いていないため。
- :年表で川の廃止を1965年と読める書き方をやめた。資料が示す1965年は計画の策定年で、廃止の年ではないため。
- :出典に書いた発行元の名前を、資料のページに書かれた表記(横浜市道路・交通政策局建設部橋梁課)にそろえた。
この場所について
この場所について、いま知っていることを教えてください。