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港橋(川も先代の橋も消えて、花の紋章が残った)|何があった場所か

自治体史・公的アーカイブ・碑文や現地の掲示など、一次資料で内容を確認済みの情報です。
位置精度: 地点特定 / 最終確認日: 2026-09-21

横浜市中区、みなと大通りが首都高速道路をまたぐあたりに、港橋という短い人道橋が架かっている。横浜市道路局橋梁課の「はしのはなし」第一稿(平成30年11月)は、港橋を市庁舎から一番近くにある横浜市が管理する橋としたうえで、橋と連続して橋ではない車道部があるため、日ごろここを利用していても橋があることに気づくのは難しいと記す。

同じ資料は、港橋が初めて架けられた年月や構造形式は明らかになっていないとしたうえで、古地図から推定すると1877年(明治10年)までに派大岡川へ架けられたと考えられるとする。1864年の横濱明細全圖には見えず、1877年の改正横濱案内繪圖には現れるという。その後1893年(明治26年)に架け替えが行われ、三角形を基本構造とするプラット・トラス橋になった。設計は神奈川県の技師であった野口嘉茂で、ほかに西の橋と吉浜橋も担当していたようだという。野口が設計した西の橋のトラス材は、いまは南区の浦舟水道橋に再利用されている。

1923年(大正12年)9月1日の関東大震災では橋梁を含む多くの土木施設が崩壊し、その後の復興事業で多くの橋が架け替えられたが、港橋は修繕のみで架け替えられなかった。1945年(昭和20年)5月29日の横浜大空襲でも、鉄筋コンクリートや鋼製の震災復興橋梁の多くは焼失することはなかったと考えられるという。戦後の連合国軍による接収に伴っても、港橋が架け替えられることはなかった。橋を消したのは、災害でも戦争でもなかった。1965年(昭和40年)に策定された横浜市六大事業のうち高速道路網計画が派大岡川を利用することが決まり、川は廃止され、トラスの港橋も撤去された。同じ資料は、取り壊される港橋の写真を1973年(昭和48年)6月のものとする。

いまの港橋は、1982年(昭和57年)に首都高速の建設にともなって架け替えられた人道橋である。同じ資料は、派大岡川に架かっていたほかの橋梁は港橋を残してもうない、と記す。高欄には港橋・みなとはしと書かれた橋名板と、花の紋章が四枚ついている。この紋章は、トラス橋であった港橋の鋼材の一部だという。資料が発行された平成30年11月の時点で、橋自体は36歳、花の紋章は125歳だと同じ資料は記す。交通量の多い場所なので、車道に出ず、歩道から眺めたい。

港橋(川も先代の橋も消えて、花の紋章が残った)の位置を示す地図
この地点の地図(地理院タイルに地点を加筆)

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