派大岡川の跡(関内と関外を分けた川と、その上に重なった高速道路)|何があった場所か
横浜市中区、関内と関外という呼び分けの境を流れていた川が派大岡川である。横浜市道路局河川企画課の「川のはなし」第七稿は、いまの伊勢佐木町の一帯に、かつて小松川・派大岡川・吉田川・新吉田川・新富士見川・富士見川・日ノ出川・桜川の八つの河川があり、明治5年(1872年)から昭和52年(1977年)のあいだに埋め立てられて消滅し、残っているのは大岡川・掘割川・中村川・堀川の四河川だけになったと記す。八つのうち最後に埋め立てられたのが、この派大岡川である。
同じ第七稿は、開削と埋立の理由をまとめた表で、派大岡川の開削を1867年、理由を吉田新田の沼地の開発とし、埋立を1977年、理由を舟路の停止と新たな都市の基盤整備とする。第八稿は、派大岡川が吉田新田の開墾により太田屋新田とのあいだに誕生した川で、吉田新田周辺の中で最も川幅が広く、当時の生活の中心となる川であったことが推察される、と記す。明治になると関内・関外地区の新田完成により河川網が確立され、派大岡川には多くの船が見られたという。
大正12年(1923年)の関東大震災では、派大岡川と桜川を含む周辺河川が護岸崩壊などの大きな被害を受けた。同じ第八稿は、派大岡川に架かる橋の多くが落橋・焼失する中で、吉田橋は崩壊せず、関外地区から横浜公園への避難路として利用されたと記す。昭和20年(1945年)5月29日の横浜大空襲では周辺の中心市街地が壊滅的な被害を受け、戦後は米軍により多くの土地や施設が接収された。
同じ資料は、周辺地区が昭和27年(1952年)の接収解除の後に関内地区の土台となる社会基盤を整えられ、昭和39年(1964年)に国鉄根岸線の桜木町駅から磯子駅までが開業したと記す。派大岡川は、昭和40年(1965年)に策定された六大事業のひとつである高速道路網計画に利用されることが決まり、昭和52年(1977年)に埋め立てられた。同じ資料は、桜川と派大岡川の跡地に新横浜通りをはじめ首都高速道路や横浜市営地下鉄などの重要な社会基盤が整備され、いまは横浜の生活や経済を支える重要な役割を担っていると記す。地点は流路の一点を示すもので、交通量の多い場所なので、車道に出ず歩道から眺めたい。

近くの痕跡
- 港橋(川も先代の橋も消えて、花の紋章が残った)(地の痕跡・約451m)
- 日ノ出川の跡(吉田川と中村川を結んだ運河と、名を継いだ公園)(水の痕跡・約512m)
- 長者橋(戦争で消えた灯具を、市民の写真から復元した橋)(地の痕跡・約564m)
- 吉田川・新吉田川の跡(大通り公園と、橋の名を集めた陶板)(水の痕跡・約623m)
時のながれ
- 寛文7年(1667年) — 吉田新田の埋立が完了し、大岡川と中村川ができる。
- 慶応3年(1867年) — 吉田新田の沼地の埋立が完了し、太田屋新田とのあいだに派大岡川が生まれる。
- 大正12年(1923年) — 関東大震災で護岸が崩れ、架かる橋の多くが落橋・焼失する。吉田橋は崩壊せず、関外地区から横浜公園への避難路になる。
- 昭和20年(1945年) — 5月29日の横浜大空襲で、周辺の中心市街地が壊滅的な被害を受ける。
- 昭和27年(1952年) — 周辺地区の接収が解除され、関内地区の土台となる社会基盤の整備が始まる。
- 昭和39年(1964年) — 国鉄根岸線の桜木町駅から磯子駅までが開業する。
- 昭和40年(1965年) — 六大事業のひとつである高速道路網計画に利用されることが決まる。
- 昭和46年(1971年) — 港橋付近で派大岡川の埋立工事が行われる。
- 昭和52年(1977年) — 派大岡川の埋立が完了する。消えた八つの河川の最後にあたる。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 横浜市道路局河川企画課の「川のはなし」第七稿(令和2年11月)は、現在の伊勢佐木町が中村川と大岡川に挟まれたエリアであるとしたうえで、かつて小松川・派大岡川・吉田川・新吉田川・新富士見川・富士見川・日ノ出川・桜川の8つの河川が存在し、明治5年(1872年)から昭和52年(1977年)の間に埋め立てられて消滅し、現存しているのは大岡川・掘割川・中村川・堀川と4河川のみとなっていると記す。
- 同じ資料は、開削と埋立の理由をまとめた表で、派大岡川の開削時期を1867年、開削の理由を吉田新田の沼地の開発、埋立時期を1977年、埋立の理由を舟路の停止と新たな都市の基盤整備とする。年表でも慶応3年(1867年)に派大岡川ができ、昭和52年(1977年)に派大岡川の干拓が完了したとする。
- 同じ資料は、消えた河川の今として、桜川の跡を新横浜通りの桜川新道、派大岡川と桜川の跡をJR根岸線と桜川新道とし、その地下を市営地下鉄ブルーラインが通ると示す。
- 横浜市道路局河川企画課の「川のはなし」第八稿(令和3年2月)は、派大岡川が吉田新田の開墾により太田屋新田との間に誕生し、吉田新田周辺の中で最も川幅が広く、当時の生活の中心となる川であったことが推察されると記す。
- 同じ第八稿は、明治時代になると関内・関外地区の新田完成により河川網が確立され、河川は人々の生活を支える重要な輸送路として活躍し、派大岡川には多くの船が見られたと記す。
- 同じ第八稿は、1923年(大正12年)9月1日に関東大震災が発生し、派大岡川、桜川を含む周辺河川は護岸崩壊など大きな被害を受け、派大岡川に架かる橋の多くが落橋、焼失する中、吉田橋は崩壊せず関外地区から横浜公園への避難路として利用されたと記す。
- 同じ第八稿は、1945年(昭和20年)5月29日の横浜大空襲により派大岡川、桜川周辺の中心市街地は壊滅的な被害を受け、桜木町駅は被害を免れたが、米軍により多くの土地や施設が接収されたと記す。
- 同じ第八稿は、派大岡川周辺地区が1952年(昭和27年)の接収解除の後に現在の関内地区の土台となる社会基盤が整備されていき、1964年(昭和39年)には国鉄根岸線の桜木町駅から磯子駅までの区間が開業したと記す。
- 同じ第八稿は、派大岡川が1965年(昭和40年)に策定された飛鳥田市政の六大事業のひとつである高速道路網計画(首都高速道路)として利用されることに決まり、1977年(昭和52年)に埋め立てられたと記す。港橋付近の派大岡川埋立工事の写真を1971年(昭和46年)のものとして載せる。
- 同じ第八稿は、桜川と派大岡川の跡地に、現在では新横浜通りを始め、首都高速道路及び横浜市営地下鉄などの重要な社会基盤が整備され、横浜市の生活や経済を支える重要な役割を担っていると記す。
- 同じ第八稿の図は、派大岡川に架かっていた橋として港橋・花園橋・吉浜橋・豊国橋・吉田橋・柳橋を挙げ、凡例でいずれも廃橋とする。
そのため、このページではこうしています
- 1977年の出来事を指す語は、三つの箇所のうち二つが使う埋立を採った。干拓と埋立のどちらが正確かを判じる材料には行き当たっていない。
- 座標は、資料が名を挙げる橋のうち、いまも地名として残る吉田橋のあたりに置いた。派大岡川は線状に延びていたので、地点は流路の一点を示すものである。
- 消えた八河川のうち、吉田川と新吉田川の跡は大通り公園、日ノ出川の跡は日ノ出川公園、桜川の跡は桜川新道として、この地図に別の地点がある。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 吉田橋という名の橋が、いまどのような構造でどこに架かっているかを示す横浜市の資料には到達できなかった。橋の名は交番の名などに残っているが、現在の橋が何代目にあたるかも確認できていない。
- 派大岡川の延長・川幅の数値は、横浜市の両資料とも示していない。「最も川幅が広い」という記述の比較対象も明示されていない。
- 同じ第七稿の中で、派大岡川の1977年の出来事を指す語が二つに割れている。開削と埋立の理由をまとめた表は埋立時期1977年とし、変遷を年ごとに並べた図では昭和52年(1977年)に派大岡川の干拓が完了したとする。第八稿は1977年(昭和52年)に埋め立てられたとする。
参考・出典
3件出典に基づいて掲載している
- 川のはなし 第七稿 大岡川(新田開発と河川改修の歴史)(VOL.7 令和2年11月)
横浜市道路局河川企画課 - 川のはなし 第八稿 大岡川(桜川と派大岡川の歴史)(VOL.8 令和3年2月)
横浜市道路局河川企画課 - 「川のはなし」
横浜市下水道河川局
訂正履歴
公開後に内容を改めた箇所を、日付とともに記録している。
- :要約の「川が消えるのは、埋められたときではなく、要らないと決まったときである」という一文を削った。資料に無い一般化の言い切りだったため。
この場所について
この場所について、いま知っていることを教えてください。