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派大岡川の跡(関内と関外を分けた川と、その上に重なった高速道路)|何があった場所か

自治体史・公的アーカイブ・碑文や現地の掲示など、一次資料で内容を確認済みの情報です。
位置精度: 地点特定 / 最終確認日: 2026-09-20

横浜市中区、関内と関外という呼び分けの境を流れていた川が派大岡川である。横浜市道路局河川企画課の「川のはなし」第七稿は、いまの伊勢佐木町の一帯に、かつて小松川・派大岡川・吉田川・新吉田川・新富士見川・富士見川・日ノ出川・桜川の八つの河川があり、明治5年(1872年)から昭和52年(1977年)のあいだに埋め立てられて消滅し、残っているのは大岡川・掘割川・中村川・堀川の四河川だけになったと記す。八つのうち最後に埋め立てられたのが、この派大岡川である。

同じ第七稿は、開削と埋立の理由をまとめた表で、派大岡川の開削を1867年、理由を吉田新田の沼地の開発とし、埋立を1977年、理由を舟路の停止と新たな都市の基盤整備とする。第八稿は、派大岡川が吉田新田の開墾により太田屋新田とのあいだに誕生した川で、吉田新田周辺の中で最も川幅が広く、当時の生活の中心となる川であったことが推察される、と記す。明治になると関内・関外地区の新田完成により河川網が確立され、派大岡川には多くの船が見られたという。

大正12年(1923年)の関東大震災では、派大岡川と桜川を含む周辺河川が護岸崩壊などの大きな被害を受けた。同じ第八稿は、派大岡川に架かる橋の多くが落橋・焼失する中で、吉田橋は崩壊せず、関外地区から横浜公園への避難路として利用されたと記す。昭和20年(1945年)5月29日の横浜大空襲では周辺の中心市街地が壊滅的な被害を受け、戦後は米軍により多くの土地や施設が接収された。

同じ資料は、周辺地区が昭和27年(1952年)の接収解除の後に関内地区の土台となる社会基盤を整えられ、昭和39年(1964年)に国鉄根岸線の桜木町駅から磯子駅までが開業したと記す。派大岡川は、昭和40年(1965年)に策定された六大事業のひとつである高速道路網計画に利用されることが決まり、昭和52年(1977年)に埋め立てられた。同じ資料は、桜川と派大岡川の跡地に新横浜通りをはじめ首都高速道路や横浜市営地下鉄などの重要な社会基盤が整備され、いまは横浜の生活や経済を支える重要な役割を担っていると記す。地点は流路の一点を示すもので、交通量の多い場所なので、車道に出ず歩道から眺めたい。

派大岡川の跡(関内と関外を分けた川と、その上に重なった高速道路)の位置を示す地図
この地点の地図(地理院タイルに地点を加筆)

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