平和祈念碑(横浜大空襲と同じ5月29日に、大通り公園へ建てられた)|何があった場所か
大通り公園は、吉田川を埋め立てた幅30から40メートル、長さ1200メートルの細長い公園である、と横浜市は記す。その阪東橋駅に近い側に平和祈念碑が立つ。総務省の追悼施設の一覧は、所在を大通り公園内の横浜市中区弥生町4付近、建立者を横浜戦災遺族会、建立年を平成4年5月29日とする。昭和20年(1945)5月29日の空襲から47年後の、同じ日付である。
横浜市は、この日未明にB29編隊517機がマリアナ基地を発進し、午前9時20分ころ横浜上空に達して、10時半ころまでの約1時間で、総数43万8,576個(2,569.6トン)の焼夷弾を投下したと記す。同じ資料は、M69と呼ばれる集束焼夷弾により、中区・南区・西区・神奈川区を中心に市街地が猛火につつまれたと続ける。市が載せる空襲被害状況図の解説は、米軍が5つの目標地点を設定したとし、第1を東神奈川駅周辺、第2を平沼橋、第3を市役所近くの港橋、第4を本牧・大鳥国民学校(現・大鳥小学校)、第5を吉野橋と挙げる。碑の立つ場所から、いま中村川に架かる同じ名の吉野橋までは、西南西へ約1キロメートルである。
被害の数は資料によって違う。横浜市は「直後の公式発表によれば」と断ったうえで、死者3,650人、重軽傷者10,198人、行方不明309人、罹災者311,218人とする。同じ市のページが載せる『神奈川県警察史』(中巻)の表は、5月29日の欄を9時15分から10時50分とし、焼夷弾を257,205、死者を3,787人、罹災者を313,144人と記して、備考に「旧横浜市全域ほとんど焼失」と書く。碑文はこの日の犠牲を「万余の犠牲者」と刻む。
碑の内部には銘板が納められている。横浜市中区は令和7年の記者発表で、これを「横浜大空襲での一部の犠牲者の氏名が刻まれた銘板」と記す。中区役所の「よこはま中区の歴史を碑もとく絵地図」も、この碑を阪東橋駅から徒歩1分と案内する。公園は横断する道路のどこからでも入れると市は記す。碑の外観はいつでも見られる。内部の公開や催しの日取りは年によって変わる。公園を管理するみどり環境局南部公園緑地事務所の案内で確かめたい。慰霊の場である。静かに歩きたい。

近くの痕跡
- 新富士見川の跡(八年で消えた先代の川と、跡地の富士見川公園)(水の痕跡・約380m)
- 浦舟水道橋(二度場所を移して、まだ渡っている鉄の骨組み)(水の痕跡・約484m)
- 吉田川・新吉田川の跡(大通り公園と、橋の名を集めた陶板)(水の痕跡・約558m)
- 日ノ出川の跡(吉田川と中村川を結んだ運河と、名を継いだ公園)(水の痕跡・約806m)
時のながれ
- 昭和20年(1945)5月29日 — 横浜市は、この日未明にB29編隊517機がマリアナ基地を発進し、午前9時20分ころ横浜上空に達して10時半ころまでの約1時間で、総数43万8,576個の焼夷弾を投下したと記す。
- 昭和22年(1947)5月 — 三ツ沢墓地に戦災遭難者諸霊供養塔が建つ。台座に「昭和二十二年三回忌五月建之」と刻まれると総務省の一覧は記す。
- 昭和25年(1950)3月 — 横浜市が三ツ沢墓地に横浜戦災者慰霊碑を建立したと総務省の一覧は記す。
- 昭和47年(1972)5月29日 — 横浜戦災遺族会が三ツ沢墓地に「合掌」の碑を建立したと総務省の一覧は記す。
- 平成4年(1992)5月29日 — 横浜戦災遺族会が大通り公園に平和祈念碑を建立。碑文は末尾を1992年5月29日と結び、題字は当時の横浜市長の揮毫によるとする。
- 令和7年(2025)12月 — 横浜市中区が、横浜大空襲についての講義と平和祈念碑および銘板の見学を組み合わせた催しを記者発表で案内した。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 横浜市「解説(横浜大空襲)」は、昭和20年(1945)5月29日未明に米第21爆撃機集団所属のB29編隊517機がマリアナ基地を発進し、午前9時20分ころ横浜上空に達して、10時半ころまでの約1時間で、総数43万8,576個(2,569.6トン)の焼夷弾を投下したと記す。
- 同じ資料は、密集した木造家屋を焼き払うのに適したM69と呼ばれる集束焼夷弾により、中区・南区・西区・神奈川区を中心に市街地が猛火につつまれたとし、被害を「直後の公式発表によれば」として、死者3,650人、重軽傷者10,198人、行方不明309人、罹災者311,218人と記す。
- 横浜市「5月29日」は、当日が火曜日で朝から快晴の無風だったとし、当時97万の人口をかかえる市の中心部が、山手地区と山下公園周辺を除いてほとんど燃え尽きたと記す。
- 横浜市「空襲被害状況図」の解説は、米軍が5つの目標地点を設定して集中的に攻撃したとし、第1を東神奈川駅周辺、第2を平沼橋、第3を市役所近くの港橋、第4を本牧・大鳥国民学校(現・大鳥小学校)、第5を吉野橋と挙げる。
- 横浜市が載せる『神奈川県警察史』(中巻)の一覧表は、5月29日の空襲を9時15分から10時50分、被害地域を横浜市中区・南区・西区・神奈川区・保土ケ谷区・鶴見区と川崎市、来襲機数をB29が500・P51が100とし、焼夷弾257,205、死者3,787人、重傷1,554人、軽傷10,837人、罹災者313,144人、備考に「旧横浜市全域ほとんど焼失」と記す。
- 横浜市「年表(横浜大空襲)」は、同じ日を「横浜大空襲」と呼び、B29が500機、P51が100機来襲し、焼夷弾投下総量2570トン、旧市域の市街地壊滅と記す。
- 総務省の追悼施設の一覧は、平和祈念碑の所在を大通り公園内、住所を神奈川県横浜市中区弥生町4付近、建立者を横浜戦災遺族会、建立年を平成4年5月29日とし、碑文の全文を載せる。
- 同じ碑文は、横浜がこの間に受けた空爆を「三十数回」と記し、「愛」と「平和」の文字を「地球」に配して象徴としたとし、この日の犠牲を「万余の犠牲者」と刻んで、末尾を1992年5月29日、横浜戦災遺族会と結ぶ。
- 横浜市中区の令和7年12月4日の記者発表は、大通り公園の平和祈念碑と、横浜大空襲での一部の犠牲者の氏名が刻まれた銘板を見学する催しを案内する。
- 中区役所が発行する「よこはま中区の歴史を碑もとく絵地図」(第8版)は、この碑を大通り公園内、市営地下鉄阪東橋駅から徒歩1分と案内する。
- 横浜市の大通り公園の案内は、吉田川を埋め立てた幅30から40メートル、長さ1200メートルの細長い公園とし、横断する道路のどこからでも入れると記す。管理はみどり環境局南部公園緑地事務所都心部公園担当である。
- 総務省の同じ一覧は、三ツ沢墓地(横浜市神奈川区三ツ沢上町20-6)に、横浜市が昭和25年3月に建てた横浜戦災者慰霊碑、横浜戦災遺族会が昭和47年5月29日に建てた「合掌」、昭和22年5月の戦災遭難者諸霊供養塔があると記す。
- 横浜市戦没者追悼式の案内は、会場を横浜市戦没者慰霊塔前広場(神奈川区三ツ沢西町3、三ツ沢公園内)とし、先の大戦をはじめとする幾多の戦禍により犠牲となった戦没者を追悼するものと記す。
そのため、このページではこうしています
- 碑は大通り公園の阪東橋駅に近い側にある。同じ公園の反対の端は関内に届き、その途中には埋め立てられた吉田川・新吉田川の跡をたどれる場所がある。
- 横浜市は、公園には横断する道路のどこからでも入れると案内している。碑の外観はいつでも見られる。内部の銘板が公開される日取りは年によって変わるので、公園を管理するみどり環境局南部公園緑地事務所の案内で確かめたい。
- 花が供えられていることがある。慰霊の場であるから、静かに歩きたい。
- 同じ空襲に関わる碑は、三ツ沢墓地(神奈川区三ツ沢上町)にもある。横浜市が昭和25年に建てた横浜戦災者慰霊碑と、昭和22年の供養塔、昭和47年の「合掌」が並ぶと総務省の一覧は記す。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 碑の内部の銘板に刻まれた氏名の数を示す横浜市の資料には到達できなかった。中区の記者発表は「一部の犠牲者の氏名」という書き方をしている。
- 碑がいつ横浜市へ引き継がれたかを示す横浜市の資料には到達できなかった。
- 5月29日に横浜市が主催する追悼行事があるかどうかを示す資料には到達できなかった。市の案内で確かめられたのは、秋に行う横浜市戦没者追悼式である。
- 空襲の焼夷弾の痕が残る建物や構造物を特定する横浜市の資料には到達できなかった。市のアーカイブにあるのは、昭和20年9月5日に撮られた「焼け残ったビル群」の写真(原所蔵は米国立公文書館)である。
- 総務省の「国内各都市の戦災の状況」に横浜市の項は無く、神奈川県からは川崎市・藤沢市・平塚市が載る。
- 空襲被害状況図の解説が第5の目標地点とする吉野橋が、いま中村川に架かる同名の橋と同じ位置かどうかを示す資料には到達できなかった。
- 死者の数は、横浜市が直後の公式発表として3,650人、『神奈川県警察史』(中巻)が3,787人、碑文が「万余の犠牲者」と、資料によって違う。
- 焼夷弾の数は、横浜市の解説の総数43万8,576個(2,569.6トン)と碑文の「焼夷弾換算四十三万余発」がどちらも四十三万余で合い、『神奈川県警察史』(中巻)の表だけが257,205とする。
- 機数は、何を数えたかが資料によって違う。横浜市の解説の517機は、マリアナ基地を発進したB29編隊の数である。横浜市の年表と『神奈川県警察史』(中巻)は、来襲した機数をB29 500・P51 100とし、碑文は「B29五百余機」「随伴戦闘機P51百余機」と刻む。
- 時刻は、横浜市が午前9時20分ころから10時半ころ、『神奈川県警察史』(中巻)が9時15分から10時50分とする。
- 罹災者は、横浜市が311,218人、『神奈川県警察史』(中巻)が313,144人とする。
- 焼けた区は、横浜市の解説が中区・南区・西区・神奈川区を中心にとし、『神奈川県警察史』(中巻)は保土ケ谷区・鶴見区と川崎市も挙げる。
参考・出典
11件出典に基づいて掲載している
訂正履歴
公開後に内容を改めた箇所を、日付とともに記録している。
- :要約で吉野橋を「いま大岡川に架かる」としていたのを「いま中村川に架かる同じ名の吉野橋」に改めた。横浜市の記者発表が、吉野橋は中村川に架かる橋だとしているため。
- :調査メモの焼夷弾の数と飛来した機数の書き方を、資料に合わせて直した。焼夷弾は警察史の数だけが他と違うこと、機数は517機が発進した数で500機が来襲した数であることが分かる形にした。
この場所について
この場所について、いま知っていることを教えてください。