権太坂(駅伝の坂とは別にある旧東海道の難所)|何があった場所か
横浜市保土ケ谷区の権太坂一丁目と二丁目の境あたりに、旧東海道の坂がある。正月の箱根駅伝で知られる権太坂は国道1号を走る道で、区は、駅伝のコースからはずれ、元町橋付近から県立光陵高校の前を通って境木中学校付近へ通じる坂道が旧東海道の権太坂だと記す。区の散策マップも、旧東海道の道筋に一番坂・二番坂と記し、国道1号の道筋には「大学駅伝でおなじみの権太坂」と書き添える。同じ名で呼ばれる坂が、二本ある。
横浜市道路局計画調整部企画課は、保土ケ谷宿を、江戸を出て最初の難所といわれる急坂「権太坂」の手前にあった宿場とし、旅人の多くはこの宿場で休息してから坂越えに挑んだといわれると記す。区は、保土ケ谷宿が品川・川崎・神奈川に続く四番目の宿場で、江戸から八里九丁、約33キロメートルの位置だと記す。同じページは別の箇所で、八里九丁を約32キロメートルとも換算している。江戸から来た旅人は、神奈川宿の台町の坂を過ぎ、この宿場で休んでから坂にかかった。
今の坂は舗装されている。区は、当時は傾斜のきつい坂が一番坂、二番坂と続いていたと記す。区の散策マップの区間距離では、元町橋から一番坂を上って標柱の立つあたりまで約470メートル、そこから西へさらに約960メートルである。国土地理院の標高データで道筋をたどると、元町橋のあたりが約16.5メートル、境木の坂の上が約71.9メートルで、約1.7キロメートルの間に約55メートル上がる。もっとも急なおよそ90メートルの区間では約9.8メートル上がる。同じ方法で国道1号をたどると、元町橋交番前のあたりから南西へ約1.5キロメートルの間に約36メートル上がる。
坂には標柱と案内板が立ち、下手に旧東海道権太坂改修記念碑がある。上りきった境木には、立場の跡、境木地蔵尊、武相国境モニュメントが並ぶ。区は、街道で行き倒れる旅人が多かったことから近くに投込み塚があったと記し、散策マップは投げ込み塚の碑の場所を示す。名の由来は定まっていない。区は、坂の名を尋ねられた耳の遠い老人が自分の名を答えたという説と、坂を開いた藤田権左ヱ門の名から権左坂と呼ばれたものが転じたという説を並べる。坂は今も人が住む生活道路である。歩道のない区間があるので、車に気をつけて歩きたい。

近くの痕跡
- 東隧道(水と道を、一つの穴に通した震災復興)(水の痕跡・約2.4km)
- 大原隧道(水道の幹線と人とが、同じ穴を通っている)(水の痕跡・約2.9km)
- 尾張屋橋(昭和のはじめに消えた地名が、橋の名にだけ残っている)(地の痕跡・約3.3km)
- 尻こすり坂(荷車を尻で押さえて下った坂の下を、いまも水道が通っている)(水の痕跡・約3.5km)
時のながれ
- 慶長6年(1601年) — 東海道に宿駅の制度が定められ、保土ケ谷宿が幕府公認の宿場になったと横浜市保土ケ谷区は記す。江戸から数えて四番目の宿場である。
- 慶安年間(1648年から1652年) — 東海道のルートが変わり、保土ケ谷宿が東へ移って新町ができたと国土交通省関東地方整備局横浜国道事務所は記す。横浜市保土ケ谷区は1648年頃の変更と記し、それまでの場所が元町と呼ばれるようになったとする。
- 万治2年(1659年) — 藤田権左ヱ門が坂を開くよう代官に指図され、一番のくわ入れを行ったという説を横浜市保土ケ谷区は記す。坂の上の境木地蔵尊も同じ年の建立といわれると国土交通省の資料は記す。
- 昭和15年(1940年) — 町名の権太坂が設置されたと横浜市の町名一覧は記す。読みはごんたさかである。
- 昭和56年(1981年) — 町名の権太坂が廃止され、権太坂一丁目から三丁目が設置されたと横浜市の町名一覧は記す。読みはごんたざかに変わっている。
- 平成17年(2005年) — 坂を上りきった境木に武相国境モニュメントが設置されたと国土交通省関東地方整備局横浜国道事務所は記す。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 横浜市保土ケ谷区の歴史散歩の案内は、正月の箱根駅伝で知られる権太坂が国道1号を走る道であるとし、駅伝のコースからはずれ、元町橋付近から県立光陵高校の前を通り境木中学校付近へと通じる坂道が旧東海道の権太坂だと記す。
- 同じ案内は、今では舗装されたなだらかな坂だが、当時は傾斜のきつい坂が一番坂、二番坂と続いていたと記す。特に一番坂は折れ曲がった長い坂道で、早朝に江戸を出発し歩き疲れた旅人にとっては厳しい上り坂だったようだとも記す。
- 横浜市保土ケ谷区の散策マップ『旧東海道保土ケ谷宿 歴史とひとにふれあう よりみちこみちマップ』(令和7年3月改訂)は、旧東海道の道筋に一番坂・二番坂の別を記し、国道1号の道筋には「大学駅伝でおなじみの権太坂」と書き添える。同じマップの区間距離は、元町橋から130メートルと340メートルの二区間を経て権太坂の標柱にいたり、そこから西へ960メートルと示す。
- 横浜市保土ケ谷区の坂道の案内は、権太坂の場所を権太坂一丁目と二丁目の境とし、かつては旧東海道の難所だったと記す。石標と投込み塚の碑の写真を添えている。
- 横浜市道路局計画調整部企画課は、保土ケ谷宿を、江戸を出て最初の難所といわれる急坂「権太坂」の手前にあった宿場とし、旅人の多くはこの宿場で休息してから坂越えに挑んだといわれると記す。
- 横浜市保土ケ谷区は、保土ケ谷宿が慶長6年(1601年)に伝馬朱印状の発給を受けて幕府公認の宿場となり、江戸から約33キロメートル、八里九丁で、品川・川崎・神奈川に続く四番目の宿場だと記す。宿の管轄は芝生村追分から境木地蔵までの約5キロメートルで、街並みが整っていた宿内は約2キロメートルだったとも記す。
- 国土交通省関東地方整備局横浜国道事務所の『てくてく東海道 宿場探訪マップ』は、保土ケ谷宿を江戸を出て最初の難所といわれる急坂「権太坂」の手前の宿場とし、当時、権太坂を登るつらさは厳しいもので、旅人の多くは保土ケ谷宿で休息し英気を養ってから坂越えに挑んだといわれると記す。同じマップは、戸塚宿が江戸寄りの権太坂と京寄りの大坂という二つの難所に挟まれていたとも記す。
- 同じマップは、坂の上の境木地蔵尊が万治2年(1659年)の建立といわれ、江戸からの講中や道中の安全を祈る旅人が多く参拝したと記す。現在の堂は関東大震災後の再建だとも記す。武相国境モニュメントは平成17年(2005年)の設置だと記す。
- 横浜市保土ケ谷区の子ども向けの手帖『てくてくほどがや宿場手帖』は、昔の権太坂が今より急な坂道で、江戸から保土ケ谷宿まで平らな道を旅してきた旅人にとって最初の難所だったと記す。松並木の向こう側に富士山が見える風景が浮世絵の題材として描かれたとも記す。
- 横浜市の町名一覧によれば、町名の権太坂(ごんたさか)は昭和15年11月1日に設置され、昭和56年7月13日に廃止されて、同じ日に権太坂一丁目から三丁目(ごんたざか)が設置された。境木本町も同じ日の設置である。
- 国土地理院の標高データ(1メートル間隔のレーザ測量)で旧東海道の道筋をたどると、元町橋のあたりが約16.5メートル、境木の坂の上が約71.9メートルで、約1.7キロメートルの間に約55メートル上がる。もっとも急なおよそ90メートルの区間では約9.8メートル上がり、勾配はおよそ1割になる。
- 同じ標高データで国道1号をたどると、元町橋交番前の交差点のあたりが約21.3メートル、南西へ約1.5キロメートル進んだ高みが約57.6メートルで、差は約36メートルである。
そのため、このページではこうしています
- 座標は旧東海道の坂の途中、区の散策マップが権太坂の目印として示す標柱の立つあたりに置いた。坂そのものは元町橋から境木まで約1.7キロメートルにわたり、一点では示しきれない。
- 坂の上の境木のあたりは保土ケ谷区と戸塚区の境にあたる。国土地理院の住所検索では、坂の上でいちばん高い地点は戸塚区平戸三丁目に入る。
- 坂は今も人が住み、車が通る生活道路である。歩道のない区間があるので、車に気をつけて歩きたい。沿道の住宅、学校、社宅の敷地には立ち入らない。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 権太坂の標高差や勾配を示す数値は、横浜市と横浜市保土ケ谷区の資料には見当たらなかった。
- 保土ケ谷宿の本陣と脇本陣の軒数を示す数値は、横浜市、横浜市保土ケ谷区、国土交通省関東地方整備局横浜国道事務所の資料には見当たらなかった。国土交通省の宿場探訪マップは、本陣を代々苅部家(明治初年に軽部家に改姓)がつとめ、いまも通用門と土蔵が残ると記すのみである。
- 名の由来は、横浜市保土ケ谷区が二つの説を並べるだけで、どちらが確かかを示す資料には到達できなかった。
- 投げ込み塚の碑のまわりが公園として整えられているかどうかは確かめられなかった。横浜市保土ケ谷区の公園一覧に同じ名の公園はなく、区の散策マップは、碑が旧東海道から南へ入ったところに立つことを示すだけである。
- 国土交通省関東地方整備局横浜国道事務所の東海道の解説ページには、権太坂そのものを扱う項目は見当たらなかった。
- 一番坂の大きさについて資料と実測が食い違う。横浜市保土ケ谷区の案内は、一番坂を元町方面から見上げると約40メートルあると記す。国土地理院の標高データでは、元町橋のあたりが約16.5メートル、一番坂を上りきる標柱のあたりが約49.7メートルで、差は約33メートルになる。約40メートルが何を測った値かは資料では確かめられなかった。
- 境木という地名の由来が資料で分かれる。横浜市保土ケ谷区のかわら版は、地蔵堂の境内にけやきの大木があり、そこが武蔵国と相模国の国境だったことによると記す。同じ区の宿場手帖と国土交通省の宿場探訪マップは、国境のしるしとして木の杭が立てられていたことによると記す。
- 旧東海道のルートが変わった時期が資料で異なる。横浜市保土ケ谷区は1648年頃と記し、国土交通省の宿場探訪マップは慶安年間(1648年から1652年)と記す。
参考・出典
10件出典に基づいて掲載している
- 権太坂
横浜市保土ケ谷区役所 - 保土ケ谷の坂道
横浜市保土ケ谷区役所 - 保土ケ谷宿の成り立ちと特色
横浜市保土ケ谷区役所 - 旧東海道保土ケ谷宿 歴史とひとにふれあう よりみちこみちマップ
横浜市保土ケ谷区役所 - てくてくほどがや宿場手帖
横浜市保土ケ谷区役所 - 旧東海道ほどがやかわら版
横浜市保土ケ谷区役所 - 横浜市内の東海道関連情報
横浜市道路局計画調整部企画課 - てくてく東海道 宿場探訪マップ(保土ヶ谷宿・戸塚宿)
国土交通省関東地方整備局横浜国道事務所 - 横浜市の町名一覧(保土ケ谷区)
横浜市市民局窓口サービス課 - 標高がわかるWeb地図(標高API)
国土地理院
訂正履歴
公開後に内容を改めた箇所を、日付とともに記録している。
- :要約の保土ケ谷宿までの距離に、同じ資料のページがもう一つの換算(八里九丁=約32キロメートル)も書いていることを書き添えた。
この場所について
この場所について、いま知っていることを教えてください。