日ノ出川の跡(吉田川と中村川を結んだ運河と、名を継いだ公園)|何があった場所か
横浜市中区の伊勢佐木長者町駅のすぐ東に、日ノ出川公園という名の公園がある。園内に川はない。横浜市道路局河川企画課の「川のはなし」第七稿は、伊勢佐木町の一帯にかつて小松川・派大岡川・吉田川・新吉田川・新富士見川・富士見川・日ノ出川・桜川の八つの河川があり、明治5年(1872年)から昭和52年(1977年)のあいだに埋め立てられて消えたと記す。同じ資料は日ノ出川の開削を1875年、理由を舟路の開拓とし、消えた川の跡地に「日ノ出川公園(日ノ出川の一部)」を挙げる。
横浜開港資料館の館報「開港のひろば」第95号は、日ノ出川を、吉田川の千秋橋と鶴ノ橋の間から、埋地七か町と呼ばれる不老町・翁町・扇町などを貫いて、中村川の翁橋脇へ通じる全長約603メートルの運河と説明する。両岸には石材店・木材店・運送店が並んだが、川幅が狭く水深も浅く、大型船には向かなかったという。同じ資料は、関東大震災の後の大正13年(1924年)、政府の復興局がこの川を埋めて公園にする案を検討し、川で商う人々と沿岸の住民が逆向きの運動を起こし、わずかの差で埋立反対に決したと記す。
埋め立てられたのは、その約30年後である。同じ資料は、昭和28年(1953年)4月から工事が始まり、約3年かけて終わり、跡地は横浜市道・関外六五号線になったと記す。「川のはなし」第七稿は埋立の完了を1956年、理由を舟路の停止と瓦礫の処分とし、昭和21年(1946年)に横浜大空襲の残骸や瓦礫の投棄処分箇所として桜川とともに日ノ出川が指定されていたと記す。横浜市の日ノ出川公園の事業報告書は、所在地を中区万代町3-6、面積を4,654平方メートル、開園日を1956年(昭和31年)4月1日とする。川が消えた年に、その名を継いだ公園が開いている。
公園には庭球場2面と芝生広場、遊具があり、横浜市の案内図は園地を細長い一区画として描く。公園から中村川の翁橋までは地図の上で約570メートルで、資料が伝える川の長さに近い。護岸や親柱のような構造物、川筋を示す碑は確認できていない。周囲は建物の建て込む市街地なので、通行や利用の妨げにならないように歩きたい。

近くの痕跡
- 吉田川・新吉田川の跡(大通り公園と、橋の名を集めた陶板)(水の痕跡・約255m)
- 港橋(川も先代の橋も消えて、花の紋章が残った)(地の痕跡・約383m)
- 派大岡川の跡(関内と関外を分けた川と、その上に重なった高速道路)(水の痕跡・約512m)
- 長者橋(戦争で消えた灯具を、市民の写真から復元した橋)(地の痕跡・約731m)
時のながれ
- 明治6年(1873年) — 吉田新田の沼地を埋め立てて不老町・翁町・扇町・寿町・万代町などが新設されたと横浜市中区の町名の資料は記す。万代町の埋立には掘割川を切り開いた土砂が使われた。
- 明治8年(1875年) — 日ノ出川が完成したと横浜市道路局河川企画課の年表は記す。開削の理由は舟路の開拓とされる。
- 明治43年(1910年) — 埋立期成会が組織されるなど、利用価値を疑問視する声が明治期からあったと横浜開港資料館の館報は記す。
- 大正13年(1924年) — 政府の復興局が日ノ出川を埋め立てて公園にする案を検討した。2月6日の横浜市会で存続・改修の決議案が全会一致で可決され、その後の再議論でもわずかの差で埋立反対に決したと同じ館報は記す。
- 昭和21年(1946年) — 横浜大空襲の残骸や瓦礫の投棄処分箇所として、桜川とともに日ノ出川が指定されていたと横浜市道路局河川企画課の資料は記す。
- 昭和28年(1953年) — 4月から日ノ出川の埋立工事が始まり、約3年かけて終わったと横浜開港資料館の館報は記す。
- 昭和31年(1956年) — 日ノ出川の埋立が完了した。同じ年の4月1日に日ノ出川公園が開園したと横浜市の資料は記す。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 横浜市道路局河川企画課の「川のはなし」第七稿(令和2年11月)は、現在の伊勢佐木町が中村川と大岡川に挟まれたエリアであるとしたうえで、かつて小松川・派大岡川・吉田川・新吉田川・新富士見川・富士見川・日ノ出川・桜川の8つの河川が存在し、明治5年(1872年)から昭和52年(1977年)の間に埋め立てられて消滅し、現存しているのは大岡川・掘割川・中村川・堀川の4河川のみだと記す。
- 同じ資料は、開削と埋立の理由をまとめた表で、日ノ出川の開削時期を1875年、開削の理由を舟路の開拓、埋立時期を1956年、埋立の理由を舟路の停止と瓦礫の処分とする。年表でも明治8年(1875年)に吉田川と日ノ出川が完成し、昭和31年(1956年)に日ノ出川の埋立が完了したと記す。
- 同じ資料は、消えた河川の今として跡地を並べ、大通り公園を吉田川・新吉田川の跡、日ノ出川公園を日ノ出川の一部の跡、新横浜通りの桜川新道を桜川の跡、富士見川公園を新富士見川の跡と示す。
- 同じ資料は、明治37年(1904年)に初の路面電車の運営が開始されると横浜の舟路の需要に陰りが見え始めたとし、終戦後の昭和21年(1946年)には横浜大空襲の残骸や瓦礫の投棄処分箇所として桜川や日ノ出川が指定されていたと記す。
- 横浜開港資料館の館報「開港のひろば」第95号(平成19年1月31日発行、松本洋幸執筆)は、日ノ出川を、吉田川の千秋橋と鶴ノ橋の間から、埋地七か町と呼ばれる不老町・翁町・扇町等を貫き、中村川の翁橋脇に通ずる運河とし、明治6年に生まれた埋地七か町とほぼ同じ頃に誕生した運河で、全長は約603メートルだと記す。両側には石材店・木材店・運送店などが立ち並んでいたが、中村川や吉田川に比べて川幅が狭く、水深も浅いことから大型船舶の航行には適していなかったとも記す。
- 同じ資料は、関東大震災後の大正13年(1924年)、復興計画を立案していた政府の復興局が、山下公園・野毛山公園・神奈川公園とともに日ノ出川を埋め立てて公園化する案を検討したと記す。これに対し薪炭商・製材商・材木商・造船鉄工商・青物商や回漕業を営む人々が埋立反対を訴えて市会議員に働きかけ、同年2月6日の横浜市会で存続・改修を求める決議案が全会一致で可決されたとする。
- 同じ資料は、一方で寿町・松影町・吉浜町・扇町・翁町・不老町・長者町などの沿岸住民等46名が日之出川埋立期成同盟会を組織し、20トンから30トンの小船でさえ航行が困難であること、川によって町が分断されて交通が阻害されていること、財政的にも埋立工事の方が護岸工事・浚渫工事・橋梁復旧工事より安価であることなどを訴えて数万枚のビラを配布したと記す。市会で再度議論が行われ、わずかの差で埋立反対に決したとする。
- 同じ資料は、それから約30年後の昭和28年(1953年)4月より日ノ出川の埋立工事が行われ、約3年間かけて終了し、その跡地は横浜市道・関外六五号線となっていると記す。埋立期成会が組織されるなど利用価値を疑問視する声は明治期から存在していたことも、明治43年5月13日の『横浜貿易新報』を引いて記す。
- 横浜市が公開する日ノ出川公園の令和4年度事業報告書と令和6年度事業計画書は、いずれも所在地を神奈川県横浜市中区万代町3-6、公園面積と公園種別を4,654平方メートルの街区公園、主な施設を庭球場2面・芝生広場・遊具、公園開園日を1956年(昭和31年)4月1日とする。
- 横浜市の日ノ出川公園案内図は、園地を細長い一区画として描き、その周囲に大通公園、市営地下鉄伊勢佐木長者町駅の地下入口、神奈川県石油会館を記す。
- 横浜市の広報紙の2025年2月号は、1898年(明治31年)発行の「改正横浜市全図」から、新吉田川のほか、新吉田川と大岡川を結ぶ新富士見川、吉田川と中村川を結ぶ日ノ出川も確認できると記す。
- 横浜市中区の町名の資料は、万代町について、古くは久良岐郡吉田新田の南一ツ目と呼ばれる沼地であったが、明治6年4月に掘割川を切り開いた土砂で埋め立て、不老町・翁町・扇町・寿町・松影町などとともに万代町を新設したと記す。翁町・扇町・寿町・不老町についても、明治6年に吉田新田の沼地を埋め立てて新設したと記す。
- 横浜市道路局橋梁課の「はしのはなし」第二稿は、吉田川・新吉田川に架けられた橋のうち、蓬莱橋・権三橋・鶴之橋・千秋橋が明治5年(1872年)と明治6年(1873年)に架けられたと記す。
- 横浜市道路局橋梁課の「はしのはなし」第三稿は、中村川の翁橋が、関東大震災で廃止された西の橋の鋼材を復興事業で再利用して昭和2年(1927年)に竣工し、高速道路建設に伴い昭和61年(1986年)12月に解体・架替、その鋼材が浦舟水道橋へ再々利用されたと記す。
そのため、このページではこうしています
- 座標は日ノ出川公園である。川筋は吉田川の跡である大通り公園の側から中村川の翁橋まで続いていたため、一点では示せない。公園から翁橋までは地図の上でおよそ570メートルで、資料が伝える全長の約603メートルに近い。
- 公園は住宅と事務所の建て込む市街地の中にあり、庭球場は利用の申込みがある施設である。花壇や芝生広場は日常の生活の場でもあるため、通行や利用の妨げにならないように見て歩きたい。
- 掘割川の表記は資料によって掘割川と堀割川に分かれる。ここでは引用元の「川のはなし」第七稿と横浜市中区の町名の資料にそろえた。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 日ノ出川そのものに架かっていた橋の名を挙げた公的な資料には到達できなかった。横浜市道路局橋梁課の「はしのはなし」は第一稿から第十四稿まであるが、日ノ出川という語はどの稿にも出てこない。第十四稿の長者橋の説明に日ノ出町駅の名が出るだけである。
- 横浜市中区の町名の資料は、日ノ出町の町名の由来を佳名を採ったものとし、この地域が江戸時代の宝暦年間に埋め立てられた久良岐郡太田村で、安政6年(1859年)に越前陣屋が置かれ、その後陸軍用地となり、明治4年9月に町並みの整った所に日ノ出町字1丁目から3丁目を新設したと記す。日ノ出川と町名を結びつける記述は、同じ資料には見当たらない。日ノ出町は大岡川の西側にあり、日ノ出川が貫いた埋地七か町とは離れている。
- 跡地となった横浜市道・関外六五号線が現在どの道筋にあたるかを示す横浜市の路線図には到達できなかった。館報「開港のひろば」は、この点を個人の教示によるものと断っている。
- 日ノ出川の川幅・水深の数値を示す公的な資料には到達できなかった。
- 日ノ出川公園や周辺に、日ノ出川を説明する碑や案内板があるかどうかを示す公的な資料には到達できなかった。
- 日ノ出川が生まれた時期の書き方が資料で異なる。横浜開港資料館の館報「開港のひろば」第95号は、明治6年に生まれた埋地七か町とほぼ同じ頃に誕生した運河とし、横浜市道路局河川企画課の「川のはなし」第七稿は開削と完成を明治8年(1875年)とする。
- 跡地の示し方も資料で異なる。「川のはなし」第七稿は日ノ出川公園を日ノ出川の一部の跡とし、館報「開港のひろば」第95号は跡地が横浜市道・関外六五号線になったとする。川の全長が約603メートル、公園の面積が4,654平方メートルであることから、いずれも川筋の一部にあたると読める。
参考・出典
8件出典に基づいて掲載している
- 川のはなし 第七稿 大岡川(新田開発と河川改修の歴史)
横浜市道路局河川企画課 - 開港のひろば 第95号 埋立か? 存続か? ゆれ続けた日ノ出川
横浜開港資料館 - 日ノ出川公園 令和4年度 事業報告書
横浜市 - 日ノ出川公園 令和6年度 事業計画書
横浜市 - 日ノ出川公園 案内図
横浜市 - 中区の町名とその歩み(は行の町名)
横浜市中区 - 2025年2月号 写真で見る都市横浜の河川運河
横浜市 - はしのはなし 第三稿 西の橋ものがたり
横浜市道路局橋梁課
この場所について
この場所について、いま知っていることを教えてください。