吉野橋(川の埋め立てなどで、同じ型の橋は二つだけになった)|何があった場所か
横浜市南区、吉野町と宮元町のあいだを中村川が流れ、そこに吉野橋が架かる。横浜市都市整備局都市デザイン室は、この橋を鉄筋コンクリート造ラーメン式橋台、上路式単純鋼板桁橋とし、橋長25.9メートル、幅員21.9メートル、建造年を大正15年(1926)、設計を内務省復興局横浜出張所、施工を清水組と記す。関東大震災の三年後である。平成31年(2019)3月に横浜市認定歴史的建造物となった。橋としては14橋目である。
市の記者発表資料は、この構造をいわゆる「復興型」と呼ばれるものと記す。地質が軟弱な場所で耐震性を持たせるため、短い杭を広く打って橋台の基礎とした。そのぶん橋台には広い用地が要るので、陸の土地を取得しにくい場合には河川の中に橋台を設けた。水を流し船を通すには橋台に空間が必要で、吉野橋のそれはアーチ型である。
震災復興橋梁は、関東大震災で被災した東京と横浜の復興のため国・府・市が施行した事業で建設された橋を指す。同じ資料は、火災で木造の橋梁が焼け落ちて多くの人が逃げ場を失ったことを踏まえ、耐震耐火の構造が目指されたと記す。横浜市には178橋あり、平成31年(2019)の時点で現存は40橋、令和5年(2023)4月1日現在の一覧では37橋である。そのうち「復興型」は、河川の埋め立て等により、吉野橋と西区の新田間橋の二橋だけと橋梁課は記す。
橋が消えた理由が橋の側にあるとは限らない。横浜市道路局河川企画課の資料は、いまの伊勢佐木町のあたりに小松川・派大岡川・吉田川・新吉田川・新富士見川・富士見川・日ノ出川・桜川の八つの川があり、明治5年(1872)から昭和52年(1977)のあいだに埋め立てられて消えたと記す。橋梁課の「はしのはなし」は、そのうち吉田川・新吉田川に架かっていた橋梁は全て廃止されたと記す。その川跡がいまの大通り公園である。中村川は残った。橋台の表面は高欄と親柱まで同じ石張で統一されていると資料は記す。川へ降りないこと、通行の妨げにならないようにすること。位置は概略である。

近くの痕跡
- お三の宮日枝神社(入海を釣鐘の形に埋めた吉田新田と、震災で焼け残った本殿)(水の痕跡・約136m)
- 新富士見川の跡(八年で消えた先代の川と、跡地の富士見川公園)(水の痕跡・約726m)
- 大原隧道(水道の幹線と人とが、同じ穴を通っている)(水の痕跡・約919m)
- 霞橋(昭和3年の陸橋に、初代・大正2年の煉瓦壁と門柱が残る)(地の痕跡・約1.1km)
時のながれ
- 寛文7年(1667) — 吉田新田の埋立が完了し、大岡川と中村川ができる。
- 大正12年(1923) — 関東大震災。大岡川水系の護岸と橋梁が大きな被害を受ける。
- 大正15年(1926) — 内務省復興局横浜出張所の設計、清水組の施工で吉野橋が竣功する。
- 昭和3年(1928) — 9月1日、南吉田町の一部から吉野町が、南吉田町・蒔田町・大岡町の各一部から宮元町が置かれる。
- 昭和18年(1943) — 12月1日、中区から南区が分かれ、吉野町と宮元町は南区の町となる。
- 昭和45年(1970) — 吉田川・新吉田川・新富士見川の埋立が完了する。
- 平成31年(2019) — 3月26日、横浜市認定歴史的建造物に認定される。橋としては14橋目にあたる。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 横浜市都市整備局都市デザイン室の吉野橋のページは、構造・規模を鉄筋コンクリート造ラーメン式橋台、上路式単純鋼板桁橋、橋長25.9メートル、幅員21.9メートル(車道16.6メートルと歩道2.65メートル二本)、建造年を大正15(1926)年、設計を内務省復興局横浜出張所、施工を清水組(現 清水建設)と記す。
- 横浜市が平成31年3月28日に出した記者発表資料は、吉野橋を中村川に架かる震災復興橋梁とし、認定年月日を平成31(2019)年3月26日、橋としては14橋目の認定と記す。横浜市認定歴史的建造物の一覧も、吉野橋の認定年度を平成30年度とする。
- 同じ記者発表資料は、復興型を、地質が軟弱な現場に耐震性を持たせるため短い杭を広く打って橋台の基礎とし、橋台用地の買収が難しい場合に河川内に橋台を設け、通水と船舶の航行を確保するため橋台に空間を設けた構造と説明し、吉野橋のそれはアーチ型と記す。
- 同じ資料は、橋台の表面が高欄と親柱まで同一の石張で意匠が統一されており、華美ではないものの当時の復興局の橋梁美思想の現れとみることができると記す。また、中村川の他の震災復興橋梁は架け替え等で現存しないとも記す。
- 同じ資料は、震災復興橋梁を、大正12(1923)年の関東大震災で被災した東京・横浜の復興のために国・府・市が施行した事業で建設された橋梁とし、火災により木造の橋梁が焼け落ち多くの人々が逃げ場を失ったことを踏まえて耐震耐火構造が目指されたこと、短い期間に多くを建設するため設計がなるべく標準化されたことを記す。横浜市には178橋あったが現存は40橋、うち復興局施工が16橋とする。
- 横浜市道路・交通政策局橋梁課の震災復興橋梁のページは、最大で178橋あったが当時の姿のままで現存するのは37橋と記し、令和5年4月1日現在の一覧表を載せる。同じ一覧は、吉野橋を2番、所在を南区吉野町五丁目26-2番地先から南区宮元町一丁目7番地先、橋長25.3メートル、幅員22.0メートル、竣功年を1926年、施工を国(復興局)とする。
- 同じ一覧は、新田間橋を13番、所在を西区南幸二丁目22-7番地先から西区浅間町一丁目6番地先、橋長21.0メートル、幅員22.0メートル、竣功年を1927年、施工を国(復興局)とする。横浜市西区の温故知新!西区てくてくスケッチ第八回も、新田間橋を昭和2(1927)年竣工とし、浅間下交差点から新横浜通りを行くとすぐにあると記す。同じ橋梁課の震災復興橋梁位置図は、新田間橋を新田間川に架かる橋として示す。
- 横浜市道路・交通政策局橋梁課の歴史的建造物の保全のページは、吉野橋の概要に、横浜市では河川の埋め立て等により現在は吉野橋の他に新田間橋のみが復興型橋梁として残っていると記す。
- 神奈川県の大岡川水系河川整備計画(平成27年5月)は、中村川の上流端を左岸 横浜市南区吉野町5丁目26番地先、右岸 同区宿町1丁目3番地先、下流端を西の橋、延長を3.0キロメートルと記す。橋梁課の一覧が載せる吉野橋の南区吉野町側の地番は、この上流端の地番と重なる。
- 横浜市道路局河川企画課の川のはなし第七稿は、大岡川が南区で中村川と掘割川に分流すること、寛文7年(1667)の吉田新田の埋立完了とともに大岡川と中村川ができたこと、いまの伊勢佐木町の周辺にかつて小松川・派大岡川・吉田川・新吉田川・新富士見川・富士見川・日ノ出川・桜川の8河川があり、明治5年(1872)から昭和52年(1977)の間に埋め立てられて消滅し、現存するのは大岡川・掘割川・中村川・堀川の4河川のみであることを記す。
- 横浜市道路局橋梁課のはしのはなし第二稿は、吉田川・新吉田川に架かっていた橋梁は全て廃止されたこと、震災復興事業で千秋橋が大正15年4月、武蔵橋が昭和3年1月に竣工し、阪東橋が大正15年10月に新設されたこと、昭和48年(1973)までに吉田川を廃止することになったことを記す。区役所等が保存していた橋名板を組み込んだ記念碑、橋の詩が昭和56年(1981)に伊勢佐木長者町駅前の連絡通路壁面に設置されたことも記す。
- 横浜市市民局の横浜市町区域要覧は、吉野町(よしのちょう)と宮元町(みやもとちょう)の設置年月日をいずれも昭和3年9月1日、設置の根拠を同日の市告示143号とし、沿革の表で吉野町を南吉田町の一部から、宮元町を南吉田町・蒔田町・大岡町の各一部から新設された町と記す。当時はいずれも中区で、同じ要覧は南区の区制施行を昭和18年12月1日とし、両町を中区から編入された町に挙げる。つまり両方の町名が置かれたのは、橋が架けられた二年後にあたる。
そのため、このページではこうしています
- 座標は中村川に架かる橋の位置を採った。
- 橋はいまも車と人が通る道路橋である。
- 川へ降りないこと、周囲は住宅と商店のある市街地なので、通行の妨げにならないようにすること。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 吉野橋という橋名の由来を記した資料には到達できなかった。
- 吉野町・宮元町という町名がなぜその字になったのかを説明する記述は、横浜市町区域要覧にはなく、他の公的資料にも到達できなかった。
- 平成31年の記者発表資料が記す現存40橋と、橋梁課のページが記す現存37橋の差がどの橋にあたるのかを説明する資料には到達できなかった。
- 中村川に架かっていた他の震災復興橋梁の名と、それらがいつ架け替えられたのかを一覧にした資料には到達できなかった。
- 所在地の丁目が資料によって分かれる。横浜市都市整備局都市デザイン室のページと記者発表資料は南区吉野町1丁目26番地2地先とし、橋梁課の震災復興橋梁一覧は南区吉野町五丁目26-2番地先とする。国土地理院の住所検索では、吉野町五丁目26番地が橋のすぐ北、吉野町一丁目は約600メートル東になる。神奈川県の大岡川水系河川整備計画が中村川の上流端左岸を吉野町5丁目26番地先とする点も、五丁目と合う。
- 橋長と幅員も分かれる。都市デザイン室のページと記者発表資料は橋長25.9メートル、幅員21.9メートルとし、橋梁課の震災復興橋梁一覧は橋長25.3メートル、幅員22.0メートルとする。
- 現存数も分かれる。平成31年(2019)の記者発表資料は40橋、令和5年(2023)4月1日現在の一覧を載せる橋梁課のページは37橋とする。もとが178橋だった点は両方が一致する。
参考・出典
10件出典に基づいて掲載している
- 吉野橋(横浜市認定歴史的建造物)
横浜市都市整備局企画部都市デザイン室 - 記者発表資料 現存する「復興型」震災復興橋梁『吉野橋』を歴史的建造物として認定しました
横浜市都市整備局都市デザイン室・道路局橋梁課 - 歴史的建造物の保全
横浜市道路・交通政策局建設部橋梁課 - 震災復興橋梁
横浜市道路・交通政策局建設部橋梁課 - 震災復興橋梁一覧(令和5年4月1日現在)
横浜市道路・交通政策局建設部橋梁課 - 大岡川水系河川整備計画(平成27年5月)
神奈川県 - 川のはなし 第七稿 大岡川(新田開発と河川改修の歴史)
横浜市道路局河川企画課 - はしのはなし 第二稿 吉田川・新吉田川に架けられた橋
横浜市道路局橋梁課 - 横浜市町区域要覧(平成28年6月現在)
横浜市市民局 - 温故知新!西区てくてくスケッチ:第八回 新田間橋(あらたまばし)
横浜市西区
訂正履歴
公開後に内容を改めた箇所を、日付とともに記録している。
- :見出しの「同じ型の橋が消えたのは、川が埋められたから」を「川の埋め立てなどで、同じ型の橋は二つだけになった」に改めた。市の資料は「河川の埋め立て等により」と書き、理由を一つに言い切っていないため。
- :どの出典にも無い文(鎌倉街道がこの川を渡るという一文と、橋の見え方・上空の高架についての二文)を要約から削った。吉田川の廃止を言い切っていた書き方も、資料の原文の強さ(昭和48年までに廃止することになる)に戻した。
- :出典に書いた発行元の名前を、資料のページに書かれた表記(横浜市道路・交通政策局建設部橋梁課)にそろえた。
- :出典に書いた発行元の名前を、資料のページに書かれた表記(横浜市都市整備局企画部都市デザイン室)にそろえた。
この場所について
この場所について、いま知っていることを教えてください。