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水 水の痕跡 資料確認済み

西の橋(先代は南区に移り、いまの橋は市電の橋の跡に架かる)|何があった場所か

自治体史・公的アーカイブ・碑文や現地の掲示など、一次資料で内容を確認済みの情報です。
位置精度: 地点特定 / 最終確認日: 2026-09-19

横浜市中区、山下町と石川町のあいだに鋼のアーチ橋が架かっている。橋の下の水は、この橋を境に名が変わる。神奈川県横浜川崎治水事務所は、中村川を大岡川分派点から久良岐橋を経て西の橋下流端までとし、堀川を西の橋下流端から海までと定める。この水路は自然のものではない。万延元年(1860)、開港場を出島のようにするため、中村川の川尻から海岸までが開削されて堀川となった。同年に谷戸橋と前田橋、翌文久元年(1861)10月に西の橋が架けられた。中区の年表は、このとき関門と番所を建てたと記す。橋梁課は、各橋に関所が設けられたと記す。関内という地名は、この関門の内側という意味から来ている。

明治26年(1893)、西の橋は神奈川県技師の野口嘉茂が設計したプラット・トラスの橋に架け替えられた。大正12年(1923)の関東大震災でこの橋も被災する。橋梁課は、落橋はしなかったものの木でつくられた床材は焼失したようだと記す。廃止されたこの橋の鋼材は、復興事業で中村川の翁橋の架け替えに使われ、さらに高速道路の建設にともなう翁橋の架け替えの際、浦舟人道橋の架け替えに再び使われた。いまの浦舟水道橋である。橋は南区へ移り、名はこの場所に残った。

いま架かる橋は大正15年(1926)11月の竣工で、開通式は同年12月に行われた。設計は内務省復興局、上路式2ヒンジ鋼アーチ、橋長32.8メートル、幅員22.0メートルである。ただし、先代と同じ場所ではない。橋梁課は、プラット・トラスの西の橋が現在の橋より下流側に架かっており、現在の位置には西の橋の市電専用橋が架かっていたと記す。同じ資料は、先代の架かっていた位置がいまも道路の線形から確認できると記す。

平成17年(2005)に横浜市認定歴史的建造物となり、平成27年(2015)には山手隧道・櫻道橋・谷戸橋・打越橋とともに、元町・山手地区の震災復興施設群として土木学会選奨土木遺産に選ばれた。市の資料は、親柱は位置が動いていると思われると記す。ただし、いつどう動いたのかを説明した資料には行き当たらなかった。西の橋という名の由来を示す公的な記述にも到達していない。堀川に架けられた三つの橋のうち、この橋がもっとも上流にある。

西の橋(先代は南区に移り、いまの橋は市電の橋の跡に架かる)の位置を示す地図
この地点の地図(地理院タイルに地点を加筆)

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