谷戸橋(震災の前と後で、架かる筋が変わった橋)|何があった場所か
横浜市中区、堀川に架かる鋼アーチ橋である。横浜市道路・交通政策局橋梁課と都市整備局都市デザイン室は、所在を中区山下町69地先から元町1-13地先まで、構造を鋼アーチ橋、建築年代を昭和2年(1927)、設計を横浜市、施工を不明とし、平成17年(2005)12月に市認定歴史的建造物になったと記す。橋梁課の震災復興橋梁一覧は、橋長29.0メートル、幅員15.0メートル、場所を中区山下町37-8番地先から元町一丁目11番地先までと書く。
橋梁課は、かつての谷戸橋が水町通筋に位置していたが、震災後に現在の本町通筋へ架け直されたと記す。中区の資料によれば、水町通りも本町通りも、明治12年(1879)に外国人居留地へ置かれた30か町に名を連ねる。地図の上で見ると、いまの本町通りは山下町を南東へ進んで谷戸橋に達し、渡った先が元町通りになる。水町通りのほうは堀川の川べりで途切れ、その末端は現在の橋から下流へおよそ140メートルの位置にある。
川そのものが開港の翌年に掘られたものである。横浜市道路局河川企画課の資料は、居留地保護と取締の必要から関内と関外を隔てるために堀川が開削されたとし、完了を万延元年(1860)と記す。橋梁課の資料は、この年に谷戸橋と前田橋が架けられ、各橋に関所が設けられたと記す。谷戸橋は、この川に最初に架けられた二つの橋の一方である。中区の資料は、同じ万延元年の2月に横浜村の民家91余軒が堀川の東へ移されたと記す。橋を渡った先の元町は、そのとき移された村である。
谷戸橋の名の由来を記す公的資料には到達できなかった。中区の資料は、明治17年(1884)に山手居留地へ置かれた26か町の一つに「谷戸坂」を挙げ、区内の町名の由来説明で「谷戸」を土地の低い沢や谷を指す語として使う。橋梁課は現在の橋を、アール・デコ調の親柱をもつ数少ない震災復興期の鋼アーチ橋の一つと記す。平成27年度には、打越橋・西の橋・山手隧道・櫻道橋とともに「元町・山手地区の震災復興施設群」として土木学会選奨土木遺産に選ばれた。いまも車と人が渡る。通行の妨げにならないようにしたい。

近くの痕跡
- 霞橋(半分の長さになって、三つ目の名で運河に架かる)(地の痕跡・約517m)
- 西の橋(先代は南区に移り、いまの橋は市電の橋の跡に架かる)(水の痕跡・約600m)
- 山手隧道(あとから掘られたほうが、第二ではない)(地の痕跡・約799m)
- 旧居留地消防隊地下貯水槽(日本大通の地下に残る煉瓦の水がめ)(水の痕跡・約810m)
時のながれ
- 安政6年(1859) — 横浜が開港し、日本大通りを境に東側が外国人居留区、西側が日本人商店街と定められる
- 万延元年(1860) — 居留地を出島化するため堀川が開削され、谷戸橋と前田橋が架けられて関所が置かれる。横浜村の民家が堀川の東へ移される
- 文久元年(1861) — 西の橋が堀川に架けられる
- 明治12年(1879)1月 — 外国人居留地に30か町が置かれ、水町通りと本町通りもその一つとなる
- 明治17年(1884)7月 — 山手居留地に26か町が置かれ、谷戸坂もその一つとなる
- 大正12年(1923) — 関東大震災が起こる
- 昭和2年(1927) — 現在の谷戸橋が竣功する。水町通筋から本町通筋へ架け直される
- 平成17年(2005)12月 — 横浜市認定歴史的建造物になる
- 平成27年度(2015) — 打越橋・西の橋・山手隧道・櫻道橋とともに元町・山手地区の震災復興施設群として土木学会選奨土木遺産に選ばれる
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 横浜市道路・交通政策局橋梁課の歴史的建造物の保全のページは、谷戸橋(やとばし)の所在を中区山下町69地先から元町1-13地先まで、構造を鋼アーチ橋、建築年代を昭和2(1927)年、市認定歴史的建造物を平成17(2005)年12月、設計を横浜市、施工を不明と記す。同じページは、かつての谷戸橋は水町通筋に位置していたが震災後現在の本町通筋に架け直されたこと、アール・デコ調の親柱をもち、山下町と元町の結節点に位置する数少ない震災復興期の鋼アーチ橋の一つであり、重要な景観構成要素となっていることを記す。
- 横浜市都市整備局都市デザイン室の谷戸橋のページは、所在地を中区山下町69~元町1-13、構造・規模を鋼アーチ橋、建築年代を昭和2(1927)年、設計・施工を設計 横浜市と記す。横浜市認定歴史的建造物の一覧も、谷戸橋の所在を中区山下町~元町、年代を昭和2(1927)年、認定を平成17年度と記す。
- 橋梁課の震災復興橋梁一覧表(令和5年4月1日現在)は、谷戸橋を23番に挙げ、場所を中区山下町37-8番地先から中区元町一丁目11番地先まで、橋長29.0メートル、幅員15.0メートル、竣功年1927年、施工を横浜市と記す。同じ一覧は西の橋を1番に挙げ、場所を中区山下町276番地先から中区石川町一丁目1番地先まで、橋長32.5メートル、幅員22.0メートル、竣功年1926年、施工を国(復興局)と記す。
- 橋梁課が発行する「はしのはなし」第三稿 西の橋ものがたりは、西の橋を中区の堀川に架かる橋とし、堀川の最上流に架かる橋だと記す。同じ資料は、安政6年(1859)に横浜が開港すると幕府が日本大通りを境に東側を外国人居留区、西側を日本人商店街に分けたこと、横浜村・横浜新田・太田屋新田を出島化するため1860年に元町沿いに堀川を築造したこと、同年に谷戸橋と前田橋、さらに翌年に西の橋が堀川に架けられ、各橋に関所が設けられたことを記す。
- 同じ資料は、大岡川には現在も比較的多くの震災復興橋梁が残るが、中村川・堀川は吉野橋、西の橋、谷戸橋を残してすべて架け替えられたと記す。
- 横浜市道路局河川企画課の「川のはなし」第七稿 大岡川(新田開発と河川改修の歴史)は、万延元年(1860)に堀川の開削が完了したとし、横浜港開港後、幕府は日本人浪士による外国人殺傷事件が相次いだことを受け、舟運の便はもちろん、居留地保護の関係から、危険人物の取締の必要上、関内(外国人居留地)と関外を隔離するために堀川の開削を行ったと記す。同じ資料は、大岡川下流域にかつて存在した河川のうち現存するのは大岡川・掘割川・中村川・堀川の4河川のみだと記す。
- 神奈川県横浜川崎治水事務所の所管する河川の一覧は、二級河川大岡川水系の堀川を「西の橋下流端から海」まで、中村川を「大岡川分派点から久良岐橋を経て西の橋下流端」までと記す。横浜市を流れる河川一覧も、大岡川水系の二級河川として大岡川・日野川・中村川・堀川・掘割川・大岡川分水路を挙げ、堀川の延長を900メートル、中村川の延長を3000メートルと記す。
- 橋梁課の「はしのはなし」第十一稿 山手隧道ものがたりは、橋梁課が管理するもののうち土木学会選奨土木遺産に選定されたものとして、「元町・山手地区の震災復興施設群(打越橋、谷戸橋、西の橋、山手隧道、櫻道橋)」を平成27年の選定と記す。土木学会選奨土木遺産のページも、元町・山手地区の震災復興施設群を所在地 神奈川県/横浜市中区、竣工年 1926(大正15)年~1928(昭和3)年、選奨年 2015年(平成27年度)と記す。
- 中区の町名とその歩みは、明治32年に外国人居留地の町名をすべて廃止して山下町と改称したこと、それ以前の明治12年1月に外国人居留地へ海岸通り・日本大通り・堀川町・本町通り・本村通り・水町通りなど30か町が新設されたことを記す。同じ資料は、明治17年7月に山手居留地へ谷戸坂を含む26か町が新設され、明治32年にその全区域をもって山手町が新設されたことを記す。
- 中区の町名とその歩みは、元町について、横浜開港に際し開港場を建設するため横浜村の民家91余軒を万延元年(1860)2月に堀川の東へ移し、本村・元村・元村町・横浜元町などと呼んだこと、外国人居留地と山手居留地の中間に位置することから外国人へ日用品を供給し輸入品を扱う店が多くなり、文久3年(1863)にほぼ今の元町が形成されたことを記す。
- 中区の町名とその歩みは、簑沢について「ミノサワ」は「土地の低い沢(谷戸)」を意味するとし、矢口台について「ヤグチ」は「谷戸の入り口」を意味するとし、本牧三之谷について本牧村には一之谷・二之谷・三之谷の谷戸があると記す。緑区の資料は、丘陵地に海蝕によって形づくられた谷戸と呼ばれる谷や沢が南北方向にいくつも刻まれていると記す。
- 橋梁課の「はしのはなし」第十三稿 打越橋ものがたりは、震災復興橋梁のアーチ橋として、谷戸橋(昭和2年竣工、中区山下町37番地8地先)を西の橋・櫻道橋・霞橋・長者橋とともに挙げる。同じ資料は、親柱とは橋の四隅にある柱のことだと説明する。
そのため、このページではこうしています
- 本町通りと谷戸橋と元町通りの並び、および水町通りの末端から現在の橋までの距離は、地図の上で測った概算である。
- 谷戸橋の名の由来は資料で確認できなかったため、地形を指す語としての谷戸の用例を中区と緑区の資料から採った。
- 座標は堀川に架かる現在の橋の位置を採った。車と人の通行がある現役の道路橋なので、通行の妨げにならないようにしたい。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 谷戸橋の名の由来を記す公的資料には到達できなかった。中区の歴史を碑もとく絵地図は谷戸橋を地図上に示すが、名の由来の説明は載せていない。
- 震災以前の谷戸橋が水町通筋のどの地点に架かっていたかを、図面や地番で示す公的資料には到達できなかった。
- 現在の親柱が昭和2年の竣功時のものかどうかを記す公的資料には到達できなかった。橋梁課は西の橋については親柱の位置が動いていると思われると記すが、谷戸橋についての同様の記述は見あたらない。
- 万延元年(1860)の初代の谷戸橋から現在の橋までの間に、何度架け替えられたかを通して記す公的資料には到達できなかった。
- 所在地の表記が資料で分かれる。橋梁課の歴史的建造物の保全のページと都市デザイン室の谷戸橋のページは中区山下町69地先から元町1-13地先までと記し、橋梁課の震災復興橋梁一覧表と第十三稿は中区山下町37-8番地先から元町一丁目11番地先までと記す。
- 読みの書き方も分かれる。橋梁課の歴史的建造物の保全のページは「やとばし」と振り、震災復興橋梁一覧表は「ヤトハシ」と書く。
- 元町へ移された家の数が資料で異なる。橋梁課の第三稿は横浜村の住民90戸とし、中区の町名とその歩みは民家91余軒と記す。
- 現存する震災復興橋梁の数も資料で異なる。橋梁課の震災復興橋梁のページは当時の姿のまま現存するのは37橋とし、第三稿と第十三稿は40橋と記す。いずれも資料が書かれた時点の差と読める。
参考・出典
12件出典に基づいて掲載している
- 歴史的建造物の保全(歴史的建造物に認定された橋およびトンネル)
横浜市道路・交通政策局建設部橋梁課 - 谷戸橋(歴史を生かしたまちづくり・横浜市認定歴史的建造物)
横浜市都市整備局企画部都市デザイン室 - 横浜市認定歴史的建造物 一覧
横浜市都市整備局企画部都市デザイン室 - 震災復興橋梁一覧表(令和5年4月1日現在)
横浜市道路・交通政策局建設部橋梁課 - はしのはなし 第三稿 西の橋ものがたり(VOL.3 平成31年1月)
横浜市道路局橋梁課 - はしのはなし 第十一稿 山手隧道ものがたり(VOL.11)
横浜市道路局橋梁課 - はしのはなし 第十三稿 打越橋ものがたり(VOL.13 令和4年4月)
横浜市道路局橋梁課 - 川のはなし 第七稿 大岡川(新田開発と河川改修の歴史)(VOL.7 令和2年11月)
横浜市道路局河川企画課 - 横浜川崎治水事務所の所管する河川(二級河川大岡川水系)
神奈川県横浜川崎治水事務所 - 中区の町名とその歩み(や行、わ行の町名)
横浜市中区 - 中区の町名とその歩み(ま行の町名)
横浜市中区 - 元町・山手地区の震災復興施設群(選奨土木遺産 2015年)
公益社団法人土木学会
訂正履歴
公開後に内容を改めた箇所を、日付とともに記録している。
- :出典の資料名「かわのはなし 第一稿 大岡川(開削と埋立の変遷)」を、同じURLの原文どおり「川のはなし 第七稿 大岡川(新田開発と河川改修の歴史)」に直した。中の節の見出しを資料名と取り違えていたため。
- :出典に書いた発行元の名前を、資料のページに書かれた表記(横浜市道路・交通政策局建設部橋梁課)にそろえた。
- :出典に書いた発行元の名前を、資料のページに書かれた表記(横浜市都市整備局企画部都市デザイン室)にそろえた。
この場所について
この場所について、いま知っていることを教えてください。