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昇龍橋(社が去ったあとに残された、同じ場所に架かる橋では市内最古)|何があった場所か

自治体史・公的アーカイブ・碑文や現地の掲示など、一次資料で内容を確認済みの情報です。
位置精度: 地点特定 / 最終確認日: 2026-09-17

栄区長倉町、いたち川の源流部に小さな石橋が架かっている。橋長5.5メートル、幅員1.5メートル。横浜市道路局橋梁課は、これを鎌倉市今泉で産出される鎌倉石(今泉石)で組んだ石造アーチ橋とし、市内で橋梁課が管理する橋としては唯一の石橋、関東以北で現存する数少ない石橋であると記す。市の都市デザイン室は、構造を石造・アーチ橋、設計と施工をいずれも不詳と記す。橋梁課は、建てられた当時の姿をとどめたまま同じ場所に架かっている橋としては、昇龍橋が市内で最も古いと記す。

この橋は、上郷の村社だった白山神社へ渡る参道の橋である。橋梁課の資料は、白山神社が平安時代末期に鍛冶ケ谷に創建され、鎌倉の艮(北東・鬼門)にあたることから、鎌倉幕府の守艮の神として源頼朝も深く崇敬した社であったと記す。同じ資料は、この社が正中元年(1324)頃に光明ヶ谷神戸へ遷り、そこへ向かう参道橋として架けられた木橋が昇龍橋の始まりだと言われている、と記す。その白山神社は、昭和51年(1976)に東上郷町へ遷り、いまもその土地にある。社は移り、参道と橋だけがここに残された。橋を左岸側へ渡って階段を上がると鳥居の一部と基礎があり、かつてここに石造の鳥居が立っていたことがうかがえる。

いつ石の橋になったのかは、はっきりしない。親柱には大正4年(1915)と刻まれているが、橋の本体が鎌倉石であるのに対し、親柱を含む欄干は御影石でできているため、本体と欄干は時期が異なると推測されている。橋梁課は、大正3年に大正天皇の即位の礼が行われたため、これを記念して翌年に白山神社へ石造の鳥居が、参道の昇龍橋へ欄干が設けられたと考えられる、と記す。明治12年頃に編まれた皇国地誌には昇龍橋の名がなく、すぐ下流の経堂橋の名が載る。都市デザイン室は建築年代を明治中期から大正4年以前の推定とし、栄区がいたち川の案内図に載せる説明は明治30年頃とする。資料によって、年代の幅はまだ閉じていない。

意匠にも見どころがある。アーチを組む輪石は、幅と厚さの比がおよそ3対2で、石造アーチ橋の多い九州・沖縄のものと比べると薄く、繊細なつくりになっている。アーチの頂点に置く要石は五角形をしていて、石橋では非常に珍しいと橋梁課は記す。要石の上部は三角に掘られ、要石と一体に見えるよう仕上げられている。路面は平成2年(1990)の補修工事で、全体のつりあいを崩さないよう平石で化粧された。いたち川には、市内に二つしかない木橋のひとつであるみなもと二の橋や、源氏橋、栄区のしるしであるいたちを親柱にかたどった大いたち橋・小いたち橋なども架かっている。

昇龍橋(社が去ったあとに残された、同じ場所に架かる橋では市内最古)の位置を示す地図
この地点の地図(地理院タイルに地点を加筆)

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