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山手隧道(あとから掘られたほうが、第二ではない)|何があった場所か

自治体史・公的アーカイブ・碑文や現地の掲示など、一次資料で内容を確認済みの情報です。
位置精度: 地点特定 / 最終確認日: 2026-09-17

中区の麦田町と石川町のあいだ、山手の丘を貫いて二本のトンネルが並んでいる。横浜市道路局橋梁課は、このうちの山手隧道を橋長219.0メートル・幅員10.73メートルのアーチ断面の山岳トンネルとし、大正12年(1923)の関東大震災からの復興事業として建設され、昭和3年(1928)に供用を始めたと記す。市の都市デザイン室は、設計を横浜市復興局、施工を間組と記す。工事は地山の掘削から前後の道路の舗装までを含み、震災復興事業としては最大規模の費用を要した。橋梁課は工事費を当時の価格で約52万円とし、現在の貨幣価値に換算するとおよそ36億円ほどになると記す。

隣に並ぶ第二山手隧道は、名に第二とあるのに、山手隧道より古い。橋梁課は、こちらが明治44年(1911)に建設され、当時は市電専用のトンネルとして運用されていたと記す。大正8年(1919)発行の横濱新地圖には、西の橋の上流に市電専用の橋と、その路線上の市電専用トンネルが描かれている。市電以外がここを行き来するには一山を越えて大回りするほかなく、道路トンネルの建設は震災の前から市民の強い要望があったとされる。昭和47年(1972)に横浜市電が廃止されると、第二山手隧道は道路トンネルとして使われるようになった。いまは山手隧道が上り線、第二山手隧道が下り線を受け持っている。

坑口はアーチ型に縁取られ、全体に石が貼られている。本牧側は、同じ時期に架けられた櫻道橋や周辺の擁壁と同じ材料を使い、ひと続きに見えるようつくられた。トンネルの名を刻んだ銘板は、ふつう坑口の天端の中央に据える。ところが山手隧道のそこには何もない。よく見ると、左上の高い位置に山手隧道と刻まれた銘板がひっそりと付いている。橋梁課は、地元で麦田のトンネルという呼び名のほうが一般的なのは、意匠のために銘板が目につきにくく、正式名称の印象が薄いからではないかと記す。平成13年度(2001)に横浜市認定歴史的建造物となり、平成27年(2015)には打越橋・谷戸橋・西の橋・櫻道橋とともに、元町・山手地区の震災復興施設群として土木学会選奨土木遺産に選ばれた。

山手隧道(あとから掘られたほうが、第二ではない)の位置を示す地図
この地点の地図(地理院タイルに地点を加筆)

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