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響橋(開かれなかった東京五輪で、マラソンの折り返し地点に想定された橋)|何があった場所か

自治体史・公的アーカイブ・碑文や現地の掲示など、一次資料で内容を確認済みの情報です。
位置精度: 地点特定 / 最終確認日: 2026-09-16

横浜市鶴見区、国道1号の切り通しの上に鉄筋コンクリートのアーチ橋が架かっている。橋長48.0メートル、幅員11.2メートル。横浜市道路局橋梁課は、この響橋の竣工を昭和16年(1941)と記す。第二京浜国道の建設は昭和11年(1936)10月に着工され、土木学会関東支部の資料によれば、この橋は当初「寺尾橋」と呼ばれ、新しい国道に分断される水道道の陸橋として計画されたものだった。橋梁課が所蔵する昭和13年6月の図面にも「寺尾橋架橋工事設計圖」の名が残る。

計画の性格を変えたのはオリンピックである。昭和11年(1936)7月に第12回オリンピックの昭和15年(1940)東京開催が正式に決まり、神宮外苑競技場を起終点とするマラソンコースを引くと、この橋までがおよそ21キロ、往復で42キロになった。橋梁課は、この付近を折り返し地点に想定した計画が立てられたと記す。同じ資料は、折り返し地点は世界中の参加国のメディアから注目を浴びる箇所になるとも記す。土木学会関東支部は、マラソンコースの折り返し地点にある響橋の存在が重要視されたため、内務省土木局が設計を建築家の今井兼次に依頼したものと思われる、と記す。ところが昭和13年(1938)7月、日中戦争の拡大により東京は開催権を返上した。鋼材などの支給が制限され、工事関係者が戦地に招集されていくなかで、橋の工事だけは続けられ、昭和16年(1941)3月に竣工した。

マラソンの折り返し地点に想定された橋は、戦災で大きな被害を受けることなく残った。アーチには輪郭を強調するモールディングが、隔壁にはスリットが、アーチの内輪にはリブが入れられ、コンクリートの重量感を抑えた意匠になっている。平成13年(2001)8月に横浜市認定歴史的建造物となり、平成28年度(2016)には土木学会選奨土木遺産に選ばれた。かながわの橋100選にも入る。地元では「めがね橋」と呼ばれるが、橋梁課の資料は、二つのアーチが水面に映って眼鏡に見える形式とは異なると断ったうえで、単一のアーチ橋も眼鏡橋と呼んだ古い慣例を挙げている。

響橋(開かれなかった東京五輪で、マラソンの折り返し地点に想定された橋)の位置を示す地図
この地点の地図(地理院タイルに地点を加筆)

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