響橋(開かれなかった東京五輪で、マラソンの折り返し地点に想定された橋)|何があった場所か
横浜市鶴見区、国道1号の切り通しの上に鉄筋コンクリートのアーチ橋が架かっている。橋長48.0メートル、幅員11.2メートル。横浜市道路局橋梁課は、この響橋の竣工を昭和16年(1941)と記す。第二京浜国道の建設は昭和11年(1936)10月に着工され、土木学会関東支部の資料によれば、この橋は当初「寺尾橋」と呼ばれ、新しい国道に分断される水道道の陸橋として計画されたものだった。橋梁課が所蔵する昭和13年6月の図面にも「寺尾橋架橋工事設計圖」の名が残る。
計画の性格を変えたのはオリンピックである。昭和11年(1936)7月に第12回オリンピックの昭和15年(1940)東京開催が正式に決まり、神宮外苑競技場を起終点とするマラソンコースを引くと、この橋までがおよそ21キロ、往復で42キロになった。橋梁課は、この付近を折り返し地点に想定した計画が立てられたと記す。同じ資料は、折り返し地点は世界中の参加国のメディアから注目を浴びる箇所になるとも記す。土木学会関東支部は、マラソンコースの折り返し地点にある響橋の存在が重要視されたため、内務省土木局が設計を建築家の今井兼次に依頼したものと思われる、と記す。ところが昭和13年(1938)7月、日中戦争の拡大により東京は開催権を返上した。鋼材などの支給が制限され、工事関係者が戦地に招集されていくなかで、橋の工事だけは続けられ、昭和16年(1941)3月に竣工した。
マラソンの折り返し地点に想定された橋は、戦災で大きな被害を受けることなく残った。アーチには輪郭を強調するモールディングが、隔壁にはスリットが、アーチの内輪にはリブが入れられ、コンクリートの重量感を抑えた意匠になっている。平成13年(2001)8月に横浜市認定歴史的建造物となり、平成28年度(2016)には土木学会選奨土木遺産に選ばれた。かながわの橋100選にも入る。地元では「めがね橋」と呼ばれるが、橋梁課の資料は、二つのアーチが水面に映って眼鏡に見える形式とは異なると断ったうえで、単一のアーチ橋も眼鏡橋と呼んだ古い慣例を挙げている。

近くの痕跡
- 長延寺跡と土居跡(オランダ領事館だった寺は移り、宿場の入口は公園になった)(地の痕跡・約3.8km)
- 加瀬山の古墳群と「夢見ヶ崎」の地名(太田道灌が城をあきらめたと伝わる台地)(地の痕跡・約4.2km)
- 高札場(掲示が立っていた場所と、復原された場所は別にある)(地の痕跡・約4.9km)
- 神奈川台場跡(海に突き出た扇形と、鍵を借りて見る石垣)(戦の痕跡・約5.1km)
時のながれ
- 昭和11年(1936)7月 — 第12回オリンピックの昭和15年(1940)東京開催が正式に決定したと、土木学会関東支部は記す。
- 昭和11年(1936)10月 — 第一京浜国道の交通量が限界に達したことから、第二京浜国道(現在の国道1号)の建設が着工される。響橋は当初「寺尾橋」と呼ばれ、新しい国道に分断される水道道の陸橋として計画された。
- 昭和13年(1938)6月 — 内務省横濱土木出張所が「寺尾橋架橋工事設計圖」を作成する。橋梁課の資料は、設計の時点では地名から名をとった「寺尾橋」という名称が予定されていたと記す。
- 昭和13年(1938)7月 — 日中戦争の拡大に伴い東京オリンピックが返上され、昭和15年の大会は幻となる。橋の工事は続行された。
- 昭和16年(1941)3月 — 響橋が竣工する。土木学会関東支部は、鋼材等の支給制限や工事関係者の戦地招集という状況の中で工事が続けられたと記す。
- 平成13年(2001)8月 — 横浜市認定歴史的建造物となる。市は、認定された橋およびトンネル12箇所の一つに挙げる。
- 平成28年度(2016) — 土木学会選奨土木遺産に認定される。土木学会関東支部は、都市形成史を物語るうえで重要であるとともに、幻となった東京オリンピックの証左となる貴重な遺構であるとする。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 横浜市道路局橋梁課が発行する「はしのはなし」第十稿(令和3年7月)は、響橋を鶴見区に所在する橋長48.0メートル・幅員11.2メートルの鉄筋コンクリートアーチ橋とし、竣工を昭和16年(1941)と記す。
- 同じ資料は、響橋が東京から神奈川を走る国道1号を跨ぐ橋であること、昭和15年(1940)に東京でオリンピックが開催される予定だったこと、響橋がその遺構として横浜市歴史的建造物・かながわの橋100選・土木学会選奨土木遺産に認定されていることを記す。
- 同じ資料は、神宮外苑競技場を起終点としたときに響橋までがおよそ21キロ(往復42キロ)になるため、この付近を折り返し地点に想定した計画が立てられたと記す。
- 同じ資料は、内務省横濱土木出張所が作成した昭和13年6月の「寺尾橋架橋工事設計圖」を掲げ、設計の時点では地名から名をとった「寺尾橋」という名称が予定されていたと記す。
- 同じ資料は、響橋という名が、アーチ構造のために下の国道1号を通る車の通過音が跳ね返って響くことに由来すると記し、親柱の銘板にも響橋とあることから竣工の時点から名が変わっていないとする。
- 同じ資料は、地元で「めがね橋」の愛称で親しまれていること、ただし眼鏡橋と呼ばれるのは二つのアーチが水面に映って眼鏡のように見える形状の橋であり、アーチが一つしかない響橋はこれに当てはまらないこと、古くは江戸時代から石造アーチ橋を眼鏡橋・太鼓橋・虹橋などと呼び、小田原城の堀にある馬出門土橋のように単一のアーチでも眼鏡橋と呼ばれた例があることを記す。
- 土木学会関東支部は、響橋を平成28年度(2016)認定の選奨土木遺産とし、完成年を1941(昭和16)年、形式を鉄筋コンクリートアーチ橋で橋長48メートル・アーチ部の高さ約13メートル、設計者等を今井兼次および内務省横浜土木出張所横浜新京浜国道事務所、施工者を不詳と記す。
- 同じ資料は、関東大震災の復興後に横浜・東京・川崎の3市の膨張と京浜工業地帯の発展で第一京浜国道の交通量が限界に達したため、第二京浜国道の建設が1936(昭和11)年10月に着工されたこと、響橋が当初は寺尾橋と呼ばれ、第二京浜国道の建設に伴い分断される水道道の陸橋として計画されたことを記す。
- 同じ資料は、1936(昭和11)年7月に第12回オリンピックの1940(昭和15)年東京開催が正式に決定したこと、内務省土木局が設計を今井兼次に依頼したものと思われること、1938(昭和13)年7月に日中戦争の拡大に伴って東京オリンピックが返上されたこと、鋼材等の支給制限や工事関係者の戦地招集という状況の中で工事が続行され1941(昭和16)年3月に竣工したことを記す。
- 同じ資料は、所在地を神奈川県横浜市鶴見区、管理者を横浜市とし、位置を自・鶴見区東寺尾北台4-10番地先、至・鶴見区北寺尾一丁目1-3番地先と記す。また意匠について、モールディングを施してアーチを強調したアーチリングと上床版底部に連続するヴォールト、隔壁のスリット、アーチ内輪のリブによりコンクリートの重量感を軽減していると記す。
- 横浜市の歴史的建造物の保全のページは、響橋を歴史的建造物に認定された橋およびトンネル12箇所の一つに挙げ、所在を鶴見区東寺尾北台5地先から北寺尾1-1地先まで、構造を鉄筋コンクリート・アーチ橋、建築年代を昭和16(1941)年、市認定歴史的建造物を平成13(2001)年8月、設計を今井兼次および内務省横浜土木出張所新京浜国道事務所、施工を不明と記す。
- 同じ一覧は、響橋が「めがね橋」の通称で親しまれていること、第2京浜国道の建設に伴い架けられたこと、この橋の付近が昭和15(1940)年開催予定だった「幻の東京オリンピック」のマラソン折り返し地点に想定されていたこと、コンクリート造ながら軽快なデザインが、のちに皇居内の桃華楽堂などを手がけた建築家今井兼次の手によるものであることを記す。
そのため、このページではこうしています
- 座標は橋の両端のほぼ中間にあたる地点を採った。国土地理院の逆ジオコーダで照合すると北寺尾一丁目にあたり、資料が記す至の側の町名と一致する。
- 折り返し地点について、資料は決定ではなく想定と記す。この違いは資料どおりに残した。
- 橋の下は国道1号の車道である。見上げる場合は歩道からとし、車道に立ち入らないこと。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 響橋がマラソンコースの折り返し地点として正式に決定されていたかどうかは、参照した資料からは確認できなかった。橋梁課の資料は、この付近を折り返し地点に想定した計画が立てられたと記すにとどまる。
- 施工者は、土木学会関東支部が不詳、横浜市が不明とし、いずれの資料でも特定できない。
- 陸橋が渡す水道道が、どの水道の管路に沿う道であるかを示す記述には到達できなかった。
- 設計を今井兼次に依頼した経緯について、土木学会関東支部は依頼したものと思われると推量の形で記しており、依頼の事実を直接示す資料には到達できなかった。
- 名称の読みが資料によって分かれる。横浜市道路局橋梁課の「はしのはなし」と土木学会関東支部はひびきはしと振り、横浜市の歴史的建造物の一覧はひびきばしと振る。
- 位置の地番表記が分かれる。土木学会関東支部は東寺尾北台4-10番地先から北寺尾一丁目1-3番地先まで、横浜市の一覧は東寺尾北台5地先から北寺尾1-1地先までとする。
- 設計者の経歴の並べ方が食い違う。横浜市の資料は、今井兼次がのちに皇居内の桃華楽堂や地下鉄銀座線の上野・浅草間などを手がけたと記すが、土木学会関東支部は同じ地下鉄の駅舎の意匠を昭和2年のものとしており、響橋の竣工より前にあたる。
参考・出典
4件出典に基づいて掲載している
- はしのはなし 第十稿 響橋ものがたり~幻の東京五輪橋梁~(VOL.10 令和3年7月)
横浜市道路局橋梁課 - はしのはなし
横浜市道路・交通政策局建設部橋梁課 - 歴史的建造物の保全(歴史的建造物に認定された橋およびトンネル)
横浜市道路・交通政策局建設部橋梁課 - 悠悠・土木/土木遺産/響橋(平成28年度認定 選奨土木遺産)
土木学会関東支部
訂正履歴
公開後に内容を改めた箇所を、日付とともに記録している。
- :出典に書いた発行元の名前を、資料のページに書かれた表記(横浜市道路・交通政策局建設部橋梁課)にそろえた。
- :見出しの「開かれなかった東京五輪のために架けられた橋」を改めた。資料は、この橋がはじめ新しい国道に分断される水道道の陸橋として計画され、のちに五輪のマラソンの折り返し地点に想定されたと記しており、五輪のために架けたとは書いていないため。
- :要約で、設計を今井兼次に依頼した理由を「世界各国の報道が集まる地点になるため」として土木学会関東支部の記述にしていたのを直した。その言い方は橋梁課の資料のもので、土木学会関東支部は折り返し地点にある響橋の存在が重要視されたためと記すため、二つを分けて書いた。
- :9月28日の訂正が見出しにとどまり、説明文の第3段落に旧の記述(「開かれなかった大会のために架けられた橋」)が残っていたため、同じ内容に改めた。資料は、この橋が五輪のマラソンの折り返し地点に想定されたと記し、五輪のために架けたとは書いていない。
この場所について
この場所について、いま知っていることを教えてください。